小  説

70-Zephyr 第一話(その2)

「え…………」

 本殿の屋根に、人が一人立っていたのだ。見上げる形なのでよく分からないが、髪が長
いので女性と判断した。
 その女性は、屋根の上に立っているだけで、別段何もしていなかった。しかし、どうも
夕陽を見ているらしい。背中まである黒髪が風に揺れ、朱い光を反射している。

「ち、ちょっと……!一体何を……!」
「え?」

 結城は本殿に近づくと、下から声をかけた。
 しかし、それがいけなかった。
 
「あ……きゃあっ!」

 突如女性はバランスを崩し、屋根の上を滑ってしまったのだ。危うく落ちそうになると
ころを、縁の部分でぶら下がることで回避した。
 結城は慌ててその下まで走ると、腕を広げた。
 
「危ない!ほら、飛び降りて!」

 しかし、抱きとめるという意味のその声は虚しく、彼女はそのまま屋根の上に登ってし
まった。懸垂力はしっかりあるようだ。
 どうするのかと結城が見ていると、彼女は顔を出して、結城のいる位置を確認した。そ
して次の瞬間、タンという音と共に、屋根から飛び降りた。

「うわっ!」

 しかし全く危なげなく、彼女は華麗に着地して立ち上がった。それから一度髪を整える
と、結城を見つめる。
 結城はそこで初めて、その女性が、恐らくは高校生くらいの少女であることに気付いた。
 夕陽に照らされて茶色に見える黒髪。その毛先にはゆったりとしたウエーブがかかって
いる。飾り気のない緑のセーターとジーンズは、どこか寂しげな瞳を持つ少女の雰囲気に
は、あまり合っていない気がした。

「あの……」
「あ、ごめん、驚かせちゃって。何してたのかなって、思ってさ」

 ぎこちない笑顔で、結城は少女に話しかける。
 
「……夕焼け、見てたんです……」

 少女は、太陽の方を指さす。結城も改めて、その燃える空を見てみた。
 
「うん、綺麗だよなあ」
「はい」

 少女はそう言うと、鳥居の方へ歩いて行った。そして、そこにもたれかかる。結城もつ
いて行った。
 西日は、真っ直ぐに神社を照らしていた。今は朱色の恒星が、もうすぐ山の間に隠れよ
うとしている。美しい、それでいてどこか懐かしい風景。結城は、ほうと溜め息をついた。

「そういえば、ここって街が一望できるんだな」

夕陽から視線を落としてみて、初めて結城は気付いた。畑と、わずかな数の建物。細い道
路と、廃線寸前の線路。
 三好町の全てが見えた。
 そうして改めて結城は、そこには本当に何も見る物がないことを実感した。特殊な建物
と言えば、今自分がいるこの神社くらいのものだった。

「……そうですね」

 少女は、小さな声で頷く。
 
「あー……俺、川本結城っていうんだけど、君は?」

 どうにも間が保たず息苦しいので、結城はとりあえず名乗ってみた。特別意味はないが、
名前くらいはと思ったのだ。

「……私は、秋月(あきづき)絣(かすり)です」

 しかし、絣と名乗った少女は、名前を言っただけで、またすぐに会話を切って黙ってし
まった。仕方なく、結城は話を戻すことにした。

「夕焼けか……。ここでも充分見えるけど、その、屋根の上の方が、やっぱりよく見える
のか?」
「ええ。見晴らしの良いところでは、あそこが一番なんです」
「そっか。でも、どうやって登ったんだ?」
「……秘密です」

 絣は、ほんの少し微笑んで、口に人差し指を当てた。その仕草が可愛かったのと、話を
つなぐことに成功したのとで、結城は安心した。

「ふーん。ま、いいか。それにしても、神社の屋根に登るなんて、結構バチ当たりだな」

 にっと笑う結城に、絣も小さな笑顔で答える。
 
「まあ……そうですね。でも、今のところバチが当たったことはないですよ」
「じゃあきっとその時、神様はうっかり瞬きしてたんだな」
「瞬きは、うっかりとは言わないと思いますけど……」
「瞬きは瞬きでも、長い瞬きなんだよ。思わず見逃してしまうくらいな」
「……それは瞬きじゃないでしょう」

 絣は、くすくす笑っていた。
 
 そんなことを話している内に、太陽はほとんど沈んでしまっていた。朱い空が、だんだ
んと闇に染まっていく。

「もうこんなに陽が……帰った方がいいかな、なあ」
「そうですね。でも、私はまだいます」
「え、大丈夫なのか?街灯無いだろ?」
「慣れてますから」

 驚いて聞き返す結城に、絣は平然と答える。結城は一瞬目眩がした。これほどの石段を、
暗闇でも平気なくらい歩き慣れている人間は、たとえ地元でもいる訳がないと思っていた
のだ。

「……そういうことなら、俺は退散するよ。じゃあな、絣ちゃん」

 結城は絣に手を振って、石段を降り始めた。
 
「……絣ちゃん?」

 その、呼び止めるような絣の声に、結城は振り返る。
 
「あれ?違ったっけ?秋月……」
「……絣です」
「ならいいじゃん」
「いえその……ちゃん付けは……」

 可愛いだろ、と言って結城は階段を降りだした。夕闇はもうそこまで迫っている。足元
に気をつけながら、結城は「みよし」へと戻って行った。

「あ……しまった」

その途中、結城ははたと気がついた。

「結局、お参りしてねえじゃん、俺……」

 (その3に続く)


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