小  説

85-5 雪夏塚〜セツゲツカ 姫崎綾華編_第六話 変化(その5)

 翌日。
 ドスッと言う鈍い音が廊下で響き、槙人は自室から顔を覗かせた。

「・・・綾華っ!」

 廊下に綾華が倒れていた。

「お・・・お兄ちゃん」

 駆け寄って抱き起こすと、蒼ざめた顔で綾華は弱々しく笑った。

「・・・よっと」

 すっと抱き上げ、槙人は部屋に運んだ。意識はあるので、慌てることはなかった。

「ゴメン、ね?」

 ベッドに寝かせると、綾香の表情は少しやわらいだ。

「もう慣れた」
「慣れちゃ・・・まずいよね」

 綾華の面倒を見るのは、この数日で何もするようになってしまっていた。

「ふう−・・・」

 いつも通り、綾華の椅子に腰をかけてから槙人は深い溜め息をついた。

「どうしたの?」

 綾華が寝たまま尋ねる。

「いや・・・何もできなくて、情けないと思ってさ・・・」

 槙人は苦笑いした。
 既に分かっているとはいえ、手も足も出ないこの状況は、生殺しに近かった。
 綾華のためにできることがあるなら、身をなげうってでもしてやりたかった。

「・・・仕方ないよ」

 天井に目線を動かして綾華は言う。

「それは・・・そうなんだが」
「私はね」

 綾華が続ける。

「確かに苦しいけどでも嬉しいの。前よりもはっきりお兄ちゃんの優しさが伝わってくる
から・・・」

 そしてにっこりと笑って見せた。

「そう言ってくれると嬉しいけど・・・」

 それでもそれは気休めでしかない。綾華の以上に対して、根本的に何かしている訳では
ないのだ。

「ねえお兄ちゃん」
「ん?」
「二重人格って・・信じる?」
「二重人格?」
「あの・・・夢遊病・・・のこと」
「・・・そうなのか?」
「ううん。そう思っただけ。そうも考えられるかなって」

 槙人は腕組みをした。
 分からないでもない。綾華の記憶が突然切れたのが、人格の入れ替わりだとするなら、
説明は可能だ。そしてその正体が銀色の右眼だとすれば。

「・・・事例があるから否定はしないが・・・。お前にあるとは思わないな」

 例え、事実で存在していたとしても、槙人はそう信じたかった。

「そうだよね・・・」

 自分で言ったことにくすくすと綾華は笑う。

「でもね・・・。自分の記憶がないって、本当に怖いの。その時自分は何してたのかって
・・・」

二重人格の有無に拘わらず、その時は本当に、自分以外の誰かが自分を動かしていたから。

「そっか・・・」

 槙人は綾華の頬を撫でた。
 と、綾華がその手を取り、人差し指を咥える。

「あ、綾華!?」

 驚いて、反射的に槙人は手を引っ込めた。

「えへへ、もう一回温めて欲しいな、お兄ちゃん」

 頬を染めて綾華は突然にとんでもないことを口にする。
 その言葉を一瞬で理解した槙人は、思わず赤面した。

「お、お前!こんな時に・・・!」
「こんな時だから・・・」

 槙人の言葉を綾華が遮る。

「不安で仕方がないから、今お兄ちゃんを感じたいの。もしかしたら、明日にも・・・そんな事もできなくなってしまうから」
一人は言え。目がそう言っていた。

「・・・バカ」

 それだけ言って、槙人は綾華にキスをする。
 槙人も同じ気持ちだった。もし、もう何もできなくなってしまうなら、今、できる限り綾華を愛しておきたかった。
 槙人はベッドにもぐり込んだ。

 見えない迷宮の、いつか辿り着ける出口を信じて。

(第六話了)


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