紅魔館の図書館において、小悪魔がため息をつくのはいつものことである。
「はあ……」
毎日のようにやってくる侵入者、霧雨魔理沙のおもちゃにされ、手も足も弾幕も出ないまま貴重な本を奪われる。
司書としてふがいない限りだった。
今はまだ昼前だ。魔理沙はまだ来ていない。それが逆に神経をすり減らす。
「今日はかなり強力な結界張っといたけど、やめとけばよかったかも。開けられないと知ったら魔理沙さん、絶対壊すだろうし。
それで、本棚に被害、か……」
本棚の奥のほうにたまる埃を丁寧にふき取り、小悪魔は再度ため息をつく。これを1セットとすると、あと80回以上は
繰り返されることになるだろう。
「……あ、そうだ」
ふと用事を思い出し、小悪魔は主の元へと飛ぶ。
「パチュリー様。そういえば、さっきおっしゃってた魔術書なんですけど……」
「んー?」
部屋の一角を大量の本とともに陣取っているパチュリーは、本から顔も上げず返事だけをした。
「あれって、アルマデルの裏原本のことですか?」
「……あー、そうだったかもね」
「適当に返事しないでください……」
数時間前にパチュリーが「アレ……アレをこう呼び出してなんとかするやつの裏のほう、探しておいてくれない?」という、
非常に曖昧かつ検索不能な注文をしてくれたのだ。いくら小悪魔が図書館のほぼ全ての本の位置と大まかな内容を知っているとはいえ、
アレとなんとかで分かるわけがなかった。
それでも、それらしい本を探していって該当物を挙げてみたが、答えがこれでは、なるべく出すまいと思っているため息が出てしまう。
「ごめんごめん。でもいいわ、もう。ちょっと思い返してみただけだから」
「はあ、そうですか」
「ああ、でも…………」
「はい」
何か思い出したように、パチュリーは言葉をかける。
しかし、続きは出てこなかった。
つ、とパチュリーは右手を軽く口にあてた。
「あ」 と小悪魔が気づいたときには、もう始まっていた。
「……ごほっげほっ!!う……!」
「パチュリー様!」
持病の喘息だった。急いで小悪魔はパチュリーを抱きとめる。
「ぐ……ふ!げほっげほっ!ごほっ!」
「パチュリー様!落ち着いてください!息吸って、吐いて、ゆっくり……!」
小悪魔も発作にはもう慣れたので、医学書を読み漁って対応は一通り知っていた。
背中をさすって、パチュリーの呼吸を整えさせる。だいぶ落ち着くと、小悪魔はほっと安堵の息をついた。
「ごめんなさいね、わざわざ」
「いえ、お気になさらず。一応、薬飲んでおきますか?」
「いや、いいわ。これくらいで飲んでたら、薬がいくつあっても足りないでしょ」
苦笑して、パチュリーは手を振った。
「えーっと、それで、何の話をしていたんだっけ?」
ほぼ丸1日図書館にいる小悪魔も、昼食時には外に出てくる。
中は広大な紅魔館の食堂は、図書館からは多少遠いところに位置している。
食事を終えた小悪魔は休憩がてら、パタパタと軽く羽ばたきながら紅魔館内を散歩していた。
「あ、ちょうどいいところに」
その途中、小悪魔は呼び止められた。
「咲夜様」
そこにいたのは、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜であった。
「これ、この間借りてた本。今返していいかしら」
図書館に行く途中だったのだろうか。咲夜の手には、数日前に借りていった魔術書があった。
「あ、はい。分かりました。ありがとうございます」
小悪魔は本を受け取った。
「……」
「どうしたの?」
そのまま立ち止まっている小悪魔を見て、咲夜は声をかけた。
「……あ、ああ!いえ、なんでもないです!」
我に返った小悪魔は、慌てて手をブンブン振る。
「……パチュリー様のことかしら?」
「うえ!?」
まさしく考えていたことをズバリ当てられ、小悪魔は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「わ、わかりますか?」
「あなたが悩むことっていったら、パチュリー様のことか本のことでしょ」
それはつまり、小悪魔が何かに悩んでいることに気づいていたということだ。
「……私って、そんなに単純ですかね」
「そうね」
「あう……」
しかし、小悪魔自身はそんな咲夜の思いやりに気づかず、スネた声で呟く。そこに、咲夜はあっさりと答えを返した。
「別に悪い意味で言ってるわけじゃないわ。それだけあなたが、パチュリー様のことを考えてるってことでしょ」
「はあ……」
思いがけずほめてもらい、小悪魔は照れてうつむいた。
「それで?パチュリー様がどうしたの?」
「……相談に乗っていただけますか?」
「もちろん」
メイド長は快く承諾した。そして、近くにあるから、と小悪魔を自室に連れて行った。
「ここよ」
「お、おじゃまします」
それほど広くない、簡素な部屋に通される。
「まあ、適当に座って。お茶あるけど、いる?」
「あ、はい。ありがとうございます」
言われて、小悪魔はベッドに腰掛けた。
咲夜は、対面にある椅子に座り、小悪魔に紅茶の入ったカップを手渡す。
「それで?パチュリー様がどうかしたの?」
紅茶を一口飲んでから、咲夜は小悪魔にたずねた。
「えっと……パチュリー様の、喘息のことなんですけど……」
上目遣いに、小悪魔は切り出した。
「喘息?うん」
「その、どうしても気になってしまって。でも、治すことはできませんし」
「そうね。私もよく知らないけど、向こうの世界でも治すのは難しいんじゃなかったかしら。少なくとも、長期にわたって
治療しないと……」
咲夜は少し考える仕草をする。
「ええ。ですから、それはもう諦めてるんですが、でも、せめてその頻度を減らしたくて。それで調べたら、埃とか吸って
しまうのがまずいらしくて」
「そう。掃除はきちんとやらせてるつもりだったけど……」「ああ、いえ!そういうわけではなくて、もともとあの部屋は
埃っぽいですし。窓も、ないですし……」
「作りましょうか?」
「いえ、パチュリー様は日陰で読むほうがお好きなので」
「あ、そう」
「だから換気もできなくて。それで、空気中に埃がたまるんです」
「ああ、なるほどね」
咲夜は軽くうなずいた。
「確かに、空気中のゴミはどうしようもないわね。でもパチュリー様なら、空気中のゴミを除去するような魔法、あるんじゃない?」
「あります。パチュリー様は使えませんけど、そういう魔法はあります。けど、持続時間が短いんですよ。図書館は広いですし、
そんなに長い時間パチュリー様に使わせるわけにはいきませんし。かといって、私じゃ魔力足りないし……」
か細い声で答え、小悪魔はうつむいてしまった。
「……そうね。空気清浄機とかないしね」
「……空気清浄機?」
耳慣れない単語を聞き、小悪魔は顔を上げた。
「あ、そうか知らないか。私が昔いた世界にはね、そういう機械があったのよ」
「え!?そんな便利なものがあるんですか!?」
思わず小悪魔は身を乗り出す。
「幻想郷じゃ使えないわよ。電気通ってないから」
笑いながら、咲夜は小悪魔を押しとどめた。
「あー、うぅ……そっか」
仕方なく、小悪魔はベッドに座りなおした。
「どうにかならないですかねえ……」
ため息をついて、小悪魔は紅茶を口に含んだ。
「あ……そうだわ」
ふと、何か思い出したのか、咲夜がぽつりと呟いた。
「もしかしたら、あるかもしれないわね」
「?」
再び、小悪魔は顔を上げる。
「向こうの世界のは使えないけど、それに準ずるものはあるかもしれないわ」
「本当ですか?」
「もしかしたら、よ。あるとは言えない」
「それでもいいです。どこなんですか?」
「……行ってみる?今から」
ちょうどそこに用があったから、と咲夜は付け加える。
「はい、ぜひ!あ、でも仕事が……」
即答してから、小悪魔は思いとどまる。そろそろ時間だった。それに、対魔理沙用の仕掛けを確認しなくてはならない。
「パチュリー様に許可取ればいいじゃない。今日くらいいいでしょ」
「で、でも魔理沙さんが……」
「結界破られるのなんていつものことじゃない」
「ううっ!」
図星をつかれ、小悪魔は言い返せなかった。
「で?行くの?行かないの?」
「……行きます」
結局、小悪魔は行くことに決めた。
パチュリーに許可を取ってから、ということで、門のところで待ち合わせをすることにした。
主の許可を得た小悪魔は、急いで門へ向かう。
当然、咲夜は既に待っていた。
「咲夜さん、そこ、人の名前を覚えさせる道具とかないんですか?」
「ないわ。自分で作れば?」
「……本来の目的より難しいですよ、それは」
「お待たせしました、咲夜様」
門番と話していた咲夜に、小悪魔は声をかける。
「ん。それじゃ行きましょうか」
「はい」
「咲夜さーん。私が言った道具、あったら買ってきてくださーい!」
「……あるわけないでしょ。使い道もないのに」
小悪魔と咲夜は、紅魔館から飛び立った。
「何の話してたんですか?」
「どうでもいい話よ。本当にね」
門番の話はそれきりになった。代わりに咲夜は、これから行く店について簡単に説明した。
「最近この近くに住んだ人でね。ああ、人間よ」
「へえ」
「男の人」
「男の人、ですか……」
「幻想郷は男が少ないわよね。やっぱり、珍しいの?」
「いるにはいますけどねー。滅多に見たことないですよー」
「で、いろんなガラクタを売ってるわ。たまに、掘り出し物があるけどね。向こうの世界のものとか」
「へえ」
「だから、空気清浄機みたいなものもあるんじゃないかと思ってね」
「あるといいなあ」
「……そうね。ほら、あれよ」
咲夜は眼下に見える小さな建物を指差した。2人はその前に降り立つ。
「香霖堂」と書かれたその店のドアを、咲夜は開ける。小悪魔もその後に続いた。
「入るわよ」
「お、おじゃまします」
「店なんだから、そんなこと言わなくていいわ」
「あ、はい」
「やあ」
店の奥に、メガネをかけた青年がいた。読んでいた本から一度顔を上げて、微笑む。
「君か。今度は何の用だい?」
「……まるで、来て欲しくなかったかのような口振りね」
咲夜と香霖堂の主人、森近霖之助が話している間、小悪魔は店内を見回してみた。
お世辞にも広いとはいえない部屋の中に、所狭しとさまざまな品が陳列している。小悪魔は、いつか行った魔理沙の家の中を
思い出した。しかし、その全てが魔力を帯びたもので、煩雑に置かれた上に量が半端ではなかった。それに比べれば、
この香霖堂は魔法使いの屋敷よりは幾分落ち着いている。
「あ、本だ」
その一角に本棚を見つけ、小悪魔は近づいた。そこから1冊を取り出してみる。
「黒のホノリウス……。あー、あるわ、これ」
見つけてもさして嬉しくない本を戻し、隣を引っ張り出す。
「え……?」
その表紙を見て、小悪魔の表情が凍った。
「……こ、これは!!異界神話魔術書完全復刻版の初版本!!?」
「何?」
小悪魔が思わず叫び声をあげたのを聞き、咲夜が振り返る。
「こ、これ!!おいくらですか!!?」
「ちょっとちょっとちょっと」
小悪魔が目の色を変えて店の主人に迫ったのを、咲夜は後ろに引っ張った。
「ぐえ……」
「空気清浄機はどうしたのよ」
「あう、そうでした。で、でもこれ……」
小悪魔は、咲夜と本を交互に見比べる。咲夜はため息をついた。
「その本がどうかしたの?」
「どうかしたのじゃないですよ!!異界神話魔術書完全復刻版の初版本ですよ!!?こっちとあっちの世界合わせて1冊あるか
どうか分からない、幻の魔道書の1つですよ!!?」
興奮した声で、小悪魔は咲夜に詰め寄る。さすがのメイド長も、その勢いに多少気圧されたようだった。
しかし、すぐに冷静になって小悪魔に言う。
「まあ、すごいのは分かったわ。あなたがそれだけ言うんだものね。でも、今はパチュリー様のことで来てるの。
悪いけど、その本は返してきなさい」
「え、えう……。は、はいぃ……」
きっぱりと言い放つ咲夜の言葉に逆らえず、しぶしぶ小悪魔は本を本棚に戻した。
「それで?あるの?」
「空気清浄機か……。向こうの世界のはあるけれど、確かにこっちじゃ使えないな」
「あううぅぅ……」
「そんなことは知ってるわ。だから来たのよ。それに代わるものがないか、ね」
「うぅ〜。でもなあ……。けど。うぅ……」
「探してみればあると思う。ただ、多少時間はかかるよ」
「う〜。異界神話魔術書……」
「パチュリー様は100年生きていらっしゃるわ。すこしくら……」
「完全復刻版……再版されたのでも5冊はなかったはず……」
「……けど、なるべく」
「そんなに高くないなら……。あ、でも高いかも……。けどそれだけ価値あるしなあ」
「ああ、一週間ほどじか」
「でもでもでも!もし魔理沙さんが見つけたら絶対持ってくし!だけどだけど。うぅ〜。ていうか買われ」
「うるさいわね」
横で本のほうをちらちら見ながらぶつぶつと呟く小悪魔に、ついに咲夜が切れた。あふれんばかりの殺気を小悪魔に向ける。
「ひいっ!すいません!」
「あなた、話聞いてた?」
「だ、大部分は……聞いてなかったかと」
あははは、ととりあえず笑ってみる小悪魔。対して目の前のメイド長は。
目も当てられないほどに無表情だった。
「…………」
今一度、小悪魔の表情が凍る。笑顔のまま。
「あなた……」
「は……はいぃ」
「本とパチュリー様と……どっちが大事なの?」
「……」
「どうして間ができるのかしら?」
「ああああすみません!!で、でも、正直に言いますと、どっちも大事なんです!!パチュリー様はこの世でお1人ですけど、
あの本も世界で1冊なんですよぉ!選べないです!!」
「……つまり、あなたは本の価値とパチュリー様とを同等に考えているの?」
「ち、違います!」
あらぬことを言われ、小悪魔は言い返す。
「私はパチュリー様をお慕いしてます!尊敬してます!それにパチュリー様は人なんだから、価値なんて言葉には当てはまりません!!ただ、その……」
「何?」
「その……魅力、かな?パチュリー様の持つ魅力と、本の持つ読みたさっていう魅力と……。決してパチュリー様が魅力的じゃないって
言ってるわけじゃないんですけど、ただ、目の前であんな本見ると、やっぱり一時的には読みたい気持ちが勝つって言うか……」
最後のほうは弱気になって、声が小さくなる。なんだかんだで結局紅魔館の仕切り役には勝てないのだった。
「つまり、今一時的に本に傾いてるってこと?」
「は、はい……」
「…………」
咲夜はため息をついた。
「とにかく、私たちの目的はあくまで空気清浄機。手に入るかどうかは分からないけど、そっちが優先だからね」
「はい、すみませんでした……」
しゅんとなってうつむく小悪魔。それでも目線が本棚に行っているのが、身長差から見下ろす形になっている咲夜からでも十分分かった。
「それじゃあ、早いうちに見つけておいてくれる?約束どおり、一週間したらまた来るわ」
「ああ。それじゃあそのパチュリー様とやらによろしく伝えておいてくれ」
「わかったわ。さあ行くわよ」
「はううぅぅぅぅ……」
咲夜は、振り向いて出口に向かう。後ろ髪を引っ張られる気持ちで、とぼとぼと小悪魔はついて行く。
「……ああ、それと」
香霖堂からの帰り道。小悪魔は始終ニコニコしっ放しだった。
「咲夜様、本っ当に、ありがとうございます」
「いいわよ別に。高くなかったし」
今小悪魔の手には、異界神話魔術書完全復刻版の初版本が抱えられている。結局、咲夜が小悪魔に買い与えたのだ。
「はあ〜」
「……幸せそうね」
「それはもう。嬉しいですよ〜」
「なんて言うか、ちょっと、びっくりしたわ」
「え?」
ほんの少し笑って、咲夜は言う。
「さっき、ほんとに真剣だったわよね、あなた」
「はあ」
「いつもおとなしいところしか見てなかったから。あなたでもやっぱり怒るのね」
「い、いえそんな……。本のことになると、つい……」
「パチュリー様のことについてもね」
「あう……」
「それが、嬉しかった」
「嬉しい?」
「中途半端じゃなかったのね」
今度は、小悪魔に微笑みかける。
本も、主も、どちらも大事。そんなどっちつかずのくだらない意見は、咲夜は嫌いだった。しかしこの小柄な紅髪の悪魔は、
そう言っておきながら、自分の意見を持って、その上で正直にどちらかを選んでいた。
そのまっすぐな気持ちが、嬉しかった。
「もしあの時いい加減な答えをしていたら……刺してたわね」
「うわあ……」
湖を渡れば紅魔館である。おそらく門番が、頼んだものがあったかどうか首を長くして待っているだろう。もちろん、そんなことは無視だが。
「その本、ちゃんとパチュリー様にも見せなさいよ」
「当然です。図書館の本はパチュリー様のものですから」
「ふふ」
紅魔館に入る。
「それじゃあここで」
「あ、はい」
図書館の前に来たところで、2人は分かれることにした。
「咲夜様、今日は本当に、本当にありがとうございました」
「どういたしまして。私もいいもの見せてもらったわ」
「そ、そんな……」
「来週、また行きましょう」
「……いいんですか?」
「パチュリー様が許してくださればね」
「は、はい!ぜひ!」
そこで2人は分かれる。ぺこりと一礼してから、小悪魔は図書館の中に入っていった。
少しして、悪魔の少女の嬉しそうな声が咲夜の耳に届いた。
「パチュリー様ー!!」
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