小  説

20-永遠よりも一瞬を

 翼が灼けるように熱い。
 体中が軋んで悲鳴をあげる。
 どうして。どうしてあんなことになったんだろう。
 ただ、伝えたかったのに。
 まだ、もっと伝えたいのに。

 眼前に白が迫る。
 少し休もう。休んだら、また飛び立とう。






 ――どさ。






 指は動く。翼は、雪に埋もれてよく分からないけど、冷たい感触があるからきっと大丈
夫。
 寒い。雲の上はあんなにも暖かかったのに。地上に住む人たちは、まだ春が来ているこ
とを知らない。






 ――ざし。ざし。






 だから、伝えたい。
 ねえ、そこを歩いている人。
 聞いてください。













『春が、来ましたよ』













「……そこの妖精。人ん家の前で何してんの?」

 豪雪続きの冬。外に出る用もないから暇潰しに読書をしていた。
 その途中、何か大きなものが落ちてきた音がした。雪の塊かもしれなかったが、それに
しては音が重い。もっと、雪よりも密度のあるものだ。
 用もないのに知りたいと思うのは人間の性だろうか。だとしたら自分はやっぱり人間な
んだろう。そんなことを思いながら、藤原妹紅は外に出てみた。
 そこに落ちていたのは、一匹の妖精だった。服が真っ白で、危うく雪と間違えて踏んで
しまうところだった。
 妹紅は、雪に半分埋まっている妖精を足で小突いた。死んでいるのだろうか。だとした
らうらやましい限りだが、どうも生きているようだ。血は流れていないが、無傷ではない
だろう。空から落っこちてきたのだろうから、骨くらいは折れているかもしれない。

「……ぁ」

 妖精が口を開いた。驚いたことに意識もあるらしい。妖精の瞳は、しっかりと妹紅を捕
らえていた。
 だがそれ以上に妹紅が驚いたのは、その妖精が笑っていたことだった。何がそんなに嬉
しいのか。ひょっとして何者かに痛めつけられたことか。この妖精はマゾか。一瞬、そん
な馬鹿な考えがよぎる。

「……ま、暇はあっても誰かを相手にする気分じゃないから。悪いけど見殺しに……」

 踵を返した妹紅だったが、前に進むことは出来なかった。
 
「……離せ」

 妖精が、妹紅の足首をつかんでいたからだった。
 
「離せ!」

 強引に振りほどこうとするが、妖精はますます強く妹紅の足首を握る。この体のどこに
そんな力があるのだろうか。

「……私に何の用よ!」

 足を動かすのをやめ、しかしうんざりした様子で妹紅は声を張る。こんなわけの分から
ないものにかかわりたくなかった。

「……です」
「あ?」

 妖精の声は、妹紅には聞こえなかった。声がか細いし、少々距離もあった。
 
「……はるが、きたん……ですよ」

 妖精の体が震えている。それは寒いからなのか、それとも動くのが難しすぎるからなの
か。

「……とりあえず、手を離してくれない?」

 しばらく妖精を見つめていた妹紅だったが、やがてあきらめたような声を出した。
 
「大丈夫。逃げやしないよ」

 それでも妖精が手を離さないので、妹紅はかがんで、自力で手を離させた。
 妖精の手はすぐに開いた。どうやら、離すことさえ忘れてしまっていたらしい。そんな
になって、一体何がしたかったのだろうか。
 ばふ、と妹紅は雪の上に座り込んだ。長く青い髪が雪の上に撒き散らされる。妹紅は仰
向けに横たわる妖精とは逆方向に足を伸ばした。自然と、お互いに顔しか見えない位置に
なる。
 妹紅は妖精の顔を横目で見た。着ている服のように、そして雪そのもののように、真っ
白な肌。火傷のような痕があるのがなんとも口惜しい。それくらい、綺麗な顔をしていた。
 何より、その嬉しそうな笑顔が。
 涙が出るくらい、憎らしかった。
 妖精も妹紅を見つめる。弱々しいながらも、その満面の笑みを妹紅に向ける。何でそん
な嬉しそうな顔なんだ。それが癪に障って、妹紅は空を見上げた。

「……春が、来たって?」

 竹林の隙間から舞い降りる雪を眺め、呟くように妹紅は問う。妖精は答えず、ただうな
ずくだけだった。

「そうは、見えないけどね」

 雪はしんしんと降り積もる。今は間違うことなき冬だ。春なんてかけらも感じられない。
 
「……でも、春は来てるんです」

 妹紅から視線を逸らさず、妖精は繰り返す。
 
「雲の上は、春だったんですよ……」
「雲の上ね……」

 妹紅は曖昧に相槌を返す。
 
「……どうでもいいよ。春が来ようが、冬が長引こうが、私には……私には、どうでもい
いことなんだ」

 抑揚のない声で妹紅は呟いた。本当に、どうでもいいことだったからだ。
 妹紅は不死人だ。蓬莱の薬を服用して以来、老いることも死ぬこともなくなった。死ん
ではいないが、生きてもいない。ただ、毎日を過ごしているだけ。1日を繰り返し、1週
間を繰り返し、1ヶ月を繰り返し、1年を繰り返し。
 そして、永遠に永遠を続けることになる。季節の移り変わりなど、もう何度体験したか
分からない。妹紅にとって季節とは、刻み続ける時間の中の一要素に過ぎなかった。
 冬が終わるから何だ。春が来たから何だ。妹紅には、風が吹いたか吹かなかったかくら
いにしか感じられない。どうせそれは、またやってくるのだから。

「……春は、嫌いですか?」

 だが、妖精にそんなことが分かるはずもない。悲しそうな表情で、妹紅を見つめる。
 
「別に。どうでもいいって、言ったでしょ」

 そっけない言葉遣いで妹紅は返す。正直に言ったまでだ。好きも嫌いもない。
 
「春は、幸せですよ」
「……は?」

 そんな妹紅に、妖精は一言呟いた。妖精が妹紅から視線を逸らす。仰向けのまま、空を
見上げる。雲の上にある、春を見つめる。

「春は、幸せです。寒くて冷たかった冬が、終わるんです」
「…………」
「光が、暖かくなります。吹きつける風も柔らかくて……」

 妹紅は、黙って妖精の言葉を聞いていた。
 
「白しかなかった世界が色づき始めます。桜が咲き誇って、あたり一面……綺麗な、綺麗
な桜色」
「……そうね」

 妹紅はうなずいた。妖精は続ける。
 
「森には緑が戻ります。草原は若草色に輝きます。張り詰めた空気が消えて、空も、雲も、
なんだかのどかになります」
「うん……」

 不思議だった。妖精の言葉1つ1つが、妹紅の脳を刺激する。その言葉が、妹紅にその
風景を思い浮かべさせる。

「柔らかな日差し、暖かい風、青さの増す空をのんびりと流れる雲。小鳥の囀りをバック
に、命あふれる草原に寝転んで……。眠くなりますよね、そんなことしたら」
「春眠暁を覚えず、ね」

 妹紅の言葉に、こくり、と妖精はうなずく。
 
「幸せですよね、その瞬間は」
「……ま、ね」
「でも、春はそれだけじゃないです。川が流れます。冬の雪が溶けて、小川を作り出しま
す。さらさら、さらさらと」
「……綺麗よね、すごく澄んでて」
「はい」

 妹紅は目を閉じた。春の情景が、暗闇の中で花開いてゆく。
 春だ。そこには、春が広がっていた。
 
「桜の香りが、春をよりいっそう春にしてくれます」
「……その春に誘われて、さまざまな動物が冬眠から目覚める」
「子供が生まれ、青空の下を駆け回ります」
「植物も、示し合わせたようにいっせいに芽吹く」
「新しい草原の中、生まれたばかりの小川に、動物たちが集まります」
「それはまるで……」
「……命、そのもの」

 会話が途切れる。2人とも空を見上げたままだった。相変わらず、冷たい雪は降り続け
ている。春はまだ来ない。
 だけど、こんなにも待ち遠しかった。
 だから、こんなにも待ち遠しかった。
 
「春は……幸せです」
「うん……」

 春は、生命の始まりが一番感じられる時期だ。
 空から見下ろしてみろ。動かないものなど何もない。地面に立って周りを見渡してみろ。
そこかしこに生き物がいる。大地に寝そべり、耳を澄ましてみろ。新たな生命が、今にも
外に出ようともがいているのが聞こえる。
 それが、春だ。生命を、生きていることの素晴らしさを丸ごと具現化している。幸せそ
のものじゃないか。

「……春は、幸せよね」
「はい……」

 2人は微笑んだ。お互いの顔は見ていないけど、きっと相手も笑っているのだろう。
 
「だから……」

 妖精が、体を起こす。体に積もった雪がパラパラと落ちていく。
 
「だから、春を伝えたいんです」

 妹紅は振り向いて、妖精を見た。
 その顔は優しく、心底嬉しそうで。
 何よりも、決意に満ちていた。
 それは、遥か昔に自分が置いてきてしまった感情。死ぬことがなくなって、永遠を過ご
してきて、もう、必要がなくなってしまったもの。
 たとえその身が朽ち果てても果たしたい使命。どれだけぼろぼろになってもあきらめな
いひたむきさ。
 目の前の白い妖精には、それがあった。
 妖精が立ち上がる。思うように動かない体で、竹にしがみつき、必死になって踏ん張ろ
うとしている。その傷ついた翼でなお、春を伝えようというのか。わざわざ伝えずとも、
いずれ誰もが知る春を。
 耐え切れなかった。その姿は、妹紅にとって見るのに辛すぎた。
 
「ねえ!」
「はい……?」

 思わず、叫んでいた。
 
「もう少し、休もうとは思わないの?そんな体で、春なんか伝えられるの?」

 どうしてそんなに、一生懸命になれるのか。忘れてしまった感情を見せつけられるのは
嫌だった。
 けれど妖精は、ただ微笑むだけで。
 
「伝えたいです。春が来たんですもん。長い永い冬が終わるんです。1人でも多く、春の
幸せを伝えたいです……」
「今そんな必死にならなくたって、春なんていつでも来るでしょ!?」
「春は……すぐに終わってしまいますよ」
「けど、それでも来年また来るじゃない!次もまた来るじゃない!そんな……体で」
「でも、来年もその次も……春はすぐ終わってしまうんです」

 やめてほしかった。自分の愚かさを笑われているようで。
 永遠を過ごすが故に、春というわずかな時間の素晴らしさも忘れてしまっていた。
 永遠の中にいる妹紅には、そんな刹那も永遠に、無限にやってくる。春など無限に感じ
てきたし、これからも無限に感じることになる。
 だが、命に限りがあるからこそ、この妖精は一生懸命なのだ。もしかしたらもうすぐ死
んでしまうかもしれないから。
「短い春の素晴らしさを、たくさんの人に伝えたいんです」
 短いから、刹那だから、その春を十二分に感じてほしいのだ。永遠なんて誰にもない。
誰でもいつか、春を迎えることが出来なくなってしまうから。
 だから、限りあるその回数の中で、楽しんでほしいのだ。
 涙が出そうだった。一瞬に賭けることが、こんなにも美しいことだったなんて。


 永遠なんて、一瞬に比べればなんとちっぽけなものなんだろう。


 ばさ、と妖精が翼を振る。そこから舞い散る雪は、訪れる春に追いやられているようだ
った。
 妹紅は、もう妖精を止めようとは思わなかった。止められるものじゃないし、止めてい
いものでもない。自分にはない刹那を、思う存分伝えさせてやればよかった。

「……あいにく、家には傷薬の類はないから。悪いけど、そのまま行ってくれる?」

 不死身であることが悔やまれる。傷が勝手に治る体が恨めしかった。限りある者を手伝
うことさえ出来ない。
 妖精はにっこりと笑った。それが逆に痛々しかったが、そのまま送り出すしかなかった。
 
「春、伝えられたらいいね」
「はい。でも、あなたにはもう伝えられました」

 妖精は笑顔を崩さない。その言葉に妹紅は面食らった。
 そうだ。自分は春を伝えてもらった。それどころか、それ以上のものも受け取った。
 
「行きますね……」

 妖精はもう1度妹紅に笑いかけてから飛び立った。
 
「……いってらっしゃいっ!」

 妹紅も、笑顔で妖精に返事をした。もう自分にはこれしか出来なかったから。

 竹林を抜け、妖精の姿が見えなくなる。あとには自分と、音のない竹の空間。
 そして、胸に残るわずかなぬくもり。
 
「……確かに、春、伝わったよ」

 妖精の消えた方向を見つめ、妹紅は呟く。自分の感じたこの気持ち、伝わってほしい。
 限りある者たちよ。春の暖かさを、その儚さを、大切にせよ。永遠などないのだから、
あの妖精のように、ひたむきでいよ。
 白い春の妖精。どことなく、百合の花を彷彿とさせた。
 
「白百合の花言葉……確か、純潔……」

 あの妖精は、純潔そのものだった。春を伝えることしか考えていなかった純粋さをたた
えていた。限りがあるから、純粋だった。

「がんばってね……」

 今一度空を見上げ、妹紅は百合のような妖精に言葉を贈った。


 春はもう、すぐそこまで来ていた。


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