小  説

29-郷

 しんと静まる森の中。去年の冬が5月まで続いていたせいかは分からないが、今年は雪
が少ない。気温も幾分高いように感じられた。それでも冬は冬なのだから、冬眠する動物
も妖怪もいる。逆に活発になる妖怪もいる。ただ、放っておけば雪に埋もれるこの家の周
辺は、いまだ積もる程度にしか雪は降っていなかった。
 その家の家主、アリス・マーガトロイドは、煌々と照らす暖炉のそばで一着の服と格闘
していた。真っ白で保温性の高そうなオーバーコートである。机に置いた数冊の魔道書を
全て開きっぱなしにして、逐一その中を見ながらコートの内に小さな魔法陣を書き込んで
いく。

「………………ん。こんなとこかな?」

 それをもう数回繰り返した後、アリスは大きく息を吐いて顔を上げた。布地の合間に先
ほどの魔法陣を全て食い込ませ仕上げとする。結果、その見た目は何の変哲もないオーバ
ーコートになった。

「……ああ、もう時間ないわ。とりあえず実験しておかないと……」

 壁に掛けられた振り子時計を見て、アリスは慌てた声を出す。人形たちに留守番と片付
けを言いつけると、アリスは急いでそのコートを着込んだ。
 扉を開けると、家の中には全くない冷気が吹き付けてきた。しかしコートの保温効果は
十分である。顔以外に寒さは感じられなかった。ぶるっと1度だけ身を震わせると、アリ
スはコートの出来に満足しながら森を飛び立った。
 さしあたって実験の相手が必要である。まず最初に浮かんだ魔理沙の顔を全力で頭か
ら追っ払うと、アリスは空中で止まった。どの方向に行けばよりよい結果が得られるか思
索する。
 博麗神社は却下だ。霊夢に会いたいのは山々だが、対象が1人では参考にならない。そ
もそも霊夢なのだから、コートの効果があるかどうか分からないだろう。
 人数が多いほうがいいので紅魔館が浮かんだが、色々と面倒である。しばらくの間口に
手を当てて考えていたアリスは、ふとある方角へ向けて飛んでいった。
 その先にあるのは、人間の里である。







「それじゃあ、よい年を」
「ええ、ありがとうございます。慧音様……」

 人間の里まで来ると、ちょうどよく里の守護者が木造の家屋から出てくるところだった。
アリスはゆっくりと降下し、足音を立てないように地面に降りた。そして、なにやら満足
そうな表情をしている慧音の隣を歩く。

「………………」
「………………」

 2人はそのまま無言で歩いていた。慧音はアリスのほうを向きもしない。どうやら今の
ところ、コートの効果はしっかり発揮されているようだった。笑い出しそうになる衝動を
抑え、アリスはもうしばらく慧音の隣を歩いてみることにした。

「あ、慧音様だ」
「慧音様ー」

 そうしていると、外で遊んでいた子供たちが慧音のそばに寄ってきた。この寒い日に、
よく外で遊べるものだと感心してしまう。慧音も同じことを考えていたのか、仕方ないな
といった表情をしていた。

「こら一彦、家の手伝いはどうした」
「お前がやると家が散らかるって追い出された」
「……このやんちゃ坊主め。二葉、お前は?」
「逃げてきましたー」
「……全く、仕方のないやつらだ」

 そんなことを言いながらも、慧音は楽しそうに笑顔を作る。二葉という少女の髪をくし
ゃくしゃと撫でた。自分にじゃれついてくる子供2人に、愛おしむような表情になる。
 その光景は、アリスにとってどこか懐かしさを含むものだった。
 なんとなく、見せつけられているようにも思えた。
 
「ねえ慧音様、そっちの人は誰?」
「そっちの人?」

 一彦という少年がアリスを指差す。人を指差すとは失礼な奴だが、今はそんなことはど
うでもよかった。
 一彦に言われ、慧音はアリスのほうを振り向いた。
 
「別に誰も……うわああっ!!」

 誰もいないだろう、と言おうとしたらしい。慧音は誰もそこにはいないと思っていたの
だろう。しかし実際にはだいぶ前からアリスがくっついていた。振り向いた先にいきなり
見知った妖怪がいたりしたら、誰だって驚くかもしれない。慧音は予想以上の驚きっぷり
を見せてくれた。珍しいものが見られて、アリスはくすくす笑っていた。

「お久しぶりね、と言ってもこの間会ったけど」
「い、いつからそこに!?」

 反射的に子供たちをかばうような姿勢をとる慧音。ついさっき、と言おうとして、アリ
スはふと躊躇した。

「えーと、『ああ三江殿、こんにちは』って辺りからかな」
「そんな前からか!!?」
「嘘に決まってんでしょうが」

 いともあっさり騙される素直さに、笑うというよりアリスは呆れてしまった。ここまで
正直な輩も珍しいだろう。ちなみに三江というのは、アリスの記憶では慧音の家から一番
近いところに住んでいる人間の名前である。慧音が歩いて人里に来るのであれば必ず通る
ところだ。単なる予想で言ってみたのだが、どうやら大正解。行動パターンまで読まれる
とは、慧音の普段の生活が伺える。
 毎日毎日人間の世話をしているわけだ。
 
「実際はさっきの家から出てくるところからよ。気づかなかった?」
「ああ、全く気配を感じなかったぞ」

 自分の実力に多少なりとも自信を持っている慧音は、アリスの言葉に狼狽する。その言
葉を聞いて、アリスは満足気に微笑んだ。

「一体何の用だ?まさかまた毛糸をくれとか言うんじゃないだろうな」

 慧音が質問する。つい先日、アリスは慧音に頼んで大量の毛糸を譲ってもらっていた。
なぜそんな量の毛糸を慧音が持っていたのかは分からないが、アリスも入り用だったので
もらっておいたのだ。それはコートを作るよりも前に全て使ってしまっている。十分すぎ
る量だったので今更必要はない。アリスは首を振った。

「毛糸はもういいのよ。ただ、ちょっとした実験をね」
「実験……?」

 不意に慧音が眉をひそめる。そして後ろにいた子供たちに、家に帰るよう言いつけた。
子供たちは不満そうだったが、慧音の信頼度は極めて高いらしく、しぶしぶながらに2人
のそばを離れていった。

「その実験とやらは、里の人間を対象にしているんじゃなかろうな……?」

 子供たちが行ってしまうと、微弱な妖気を漂わせて慧音が振り返る。大した警戒ぶりだ。
下手な発言をしたら八つ裂きにされるかも、などという考えがアリスの頭に浮かんだ。実
にくだらない思いつきだ。
 実際のところ、この半獣ごときに自分が負けるはずなどないのだから。
 
「んー……。まあ、対象にしてるって言えばそうね。ああ、でも勘違いしないでよ。別に
危害を加えるわけじゃないから」

 慧音の妖気をあしらい、しれっとアリスは答える。
 
「これこれ。このコートの効果がちゃんと発揮されるか確かめたかったのよ」

 アリスは、自分の着ている白いオーバーコートをつんつんと引っ張った。ある思惑の元
に作ったコートである。
 特殊な魔力で包み込むことにより、着ている者の気配を完全に断つというものである。
コート自体からは魔力を感じられないため、妖気などで位置を探らせることが不可能にな
る。言わば魔力の隠れ蓑といったところか。

「さっきから横にいたけど気づかなかったみたいだし……まあ、成功かな」
「うぐ、こうもあっさり……。だが、さっきの子供たちはお前に気づいていたようだが……」
「そりゃ真正面から目で見れば気配がなくても分かるわよ。存在を認知させないわけじゃ
ないんだから。むしろ視覚に頼っている人間には見つかりやすいのよ」

 だからこそアリスは人間の里を選んだのだ。人間にも察知されないならば成功の度合い
がぐっと高まる。今のところ相手は慧音と子供だけだが、他の人間にも近づいて試してみ
るつもりだった。

「……それで一体何をするつもりなんだ?」

 アリスの行動の意味は理解したようだが、慧音はまだ警戒を解かない。今回のはあくま
で実験であって、それをどう使用するのか聞いていないからだろう。
 だが答える義務はない。それに答えたくなかった。
 
「あんたには関係ないわ。うん、人間にも用はないの。ただちょっと、ある人に対して使
いたいだけ」

 最後は言葉をぼかす。これ以上踏み込まれたくはないので、アリスは話を切り上げるこ
とにした。

「まあとりあえずちょっと里の中をうろつかせてもらうわ。後ろからついてこないでよ。
あんたがいたら意味ないんだから」

 くるっと体を返してアリスは歩き出した。一応手を振っておく。
 
「あ、おいちょっと待て」
「いいからあんたは老人介護でもしてなさい」

 大晦日だしね、とアリスは呼び止めようとする慧音からすたすたと遠ざかっていった。
 その後、どの辺りに行けばよく人が集まっているか見つけるまで、慧音に4回も会って
しまったが。








「ただいまー」
 自宅のドアを開け、アリスは中に入った。
 成果は上々だった。ほとんどの人間はアリスに気づくことはなかったし、また帰り道で
も妖怪がアリスを見ている感じはなかった。急いで作った割には、コートの出来はほぼ完
璧だったらしい。
 アリスは1度コートを脱ぐと、再び出かける準備を始めた。あらかじめ用意しておいた
バッグに、いくつかの服や日用品を入れていく。部屋の中は既に人形たちが片付けておい
てくれたから掃除の必要はなかった。ものの数分で家を空ける準備が整う。アリスは上海
人形を呼びつけた。そして、もう1度コートを着込む。

「それじゃみんな、私が帰ってくるまでおとなしくね」

 全ての用意を終え、アリスは部屋の中の人形たちに声をかける。流石に全員を連れて行
くわけにはいかないからだった。

「また来年」

 と言って、アリスは外に出た。扉の鍵を閉め、対積雪と対妖怪のための魔法障壁を張っ
ておく。そうして森の外へと飛んでいった。
 行く先は森の向こう、山の向こう。ある洞窟の中の1つの扉。
 幻想郷の外にある、もう1つの幻想郷。

 そこはアリスの故郷、魔界だった。









 家に着くのに大して障害はなかった。障害になりえるものはあったものの、その全てが
ことごとくアリスに気づかなかったからだった。上海人形が不思議そうに周りを見回すの
に、アリスは1つ1つ事を教えながら家へと帰っていった。
 家の中にも色々な妖怪がいる。けれども誰もアリスに気づかなかった。魔界を出て行く
ときは大勢の輩が襲ってきたものだったが、今回はなんともスムーズなものである。
 魔界の神の付き人を見つけた。相当に幻視能力が高いのだが、それに頼っている分コー
トを着ているアリスに気づく可能性は低い。ちょっと悪戯してやろうかと思ったが、今は
それ以上に悪戯したい人がいるので、彼女の視覚や聴覚を刺激しないようにアリスはそっ
とそのそばを通り過ぎていった。
 そして、1つの扉の前に立つ。
 
「……こんなことのためにこんなの作ったなんて、我ながら馬鹿みたいね」

 そこまで来て、アリスは自分のしていることを自嘲する。
 コートを作った理由。それは日常生活の中でなるべく面倒な接触を避けるためでもあっ
たのだが、本当の理由はそれではない。もっともっと子供じみた、今の自分にはとても不
似合いな理由である。
 アリスは静かに扉を開けた。
 広い部屋の奥、暖炉のそばで1つの安楽椅子が揺れている。面積の広い背もたれから、
髪留めからはみ出すような小さい髪の房が覗いている。相変わらず、ユニークな髪形を維
持しているらしい。後姿からでも、その人が何も変わっていないことにアリスは失笑する。
 ゆっくりと、アリスはその人に近づいた。気配を消すコートに身を包み、それでいてさ
らに己の気配と魔力を殺しながら。足音を立てず、空気の揺らぎさえも許さぬように。
 息を止め、アリスは椅子の背後に立った。その人は、何かの本を読んでるらしい。アリ
スがいることには気づいていないようだった。そのことにほくそ笑んで、アリスはその人
に手を出す。



「だーれだ?」



 その人の目を、アリスはそっと覆った。
 数秒、沈黙が流れる。
 
「……アリスでしょ?」

 彼女は少しも動揺した様子を見せずに、アリスの名を言い当てた。
 
「分かってた?」
「ドアを開けたところからね」

 アリスは手を放した。彼女は何も変わらぬ様子で平然と答える。
 それが自分の努力不足か、それとも彼女の嘘かは分からなかった。けれど、きっと本当
なのだろう。
 彼女は魔界の神なのだから。











 小さな少女が、女性の背後からそっと近づく。
 
『ん?』
『あ……』

 そして、彼女の顔に手をやろうとするが、その寸前で彼女は振り向いてしまった。
 
『どうしたの?』
『うー……なんでもない』

 至極残念そうに、そしてつまらなそうに少女は目を逸らす。
 何度やっても成功することはなかった。どれだけ気配を消しても彼女は気づいてしまう
のだった。
 神様だから、と納得し、尊敬もしていたけれど、1度くらいはやってみたかった。そん
な風に、悪戯っぽくじゃれ合ってみたかったのだ。











 彼女は、気づいていたのかもしれない。
 たかが子供の些細な悪戯を、今もまだ覚えていて、それに努力を払うなどなんとも馬鹿
馬鹿しいことだった。しかし少女はそれでもそれをやりたがっていた。
 だからあえて、黙っていたのかもしれなかった。
 変わっていないのは、自分も同じだった。アリスは苦笑して、彼女の首にそっと手を回
した。

「ただいま、お母さん……」

 久しぶりの故郷は、自分も含めて何も変わっていなかった。それは幻想郷の掟のような
ものなのだろう。大地のように、少しずつしかその本質は変わっていかない。
 だから、そこはいつまでも懐かしい場所。
 
「お帰り」

 魔界の神、神綺は、微笑んでアリスの手を握った。
 肌から伝わる温もりも、あの時から変わっていなかった。


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