小  説

45-ヒトガタの想い 第3話








 ――ガギン


(……?)
 妙な音が聞こえたので、私は目を覚ました。本当は眠らなくてもいいんだけど、私の起
動できる総時間、つまり生き物でいう寿命は決まっているから、夜休むときなんかは意識
を止めている。
 って、考えるのはそこじゃなったわ。何かしら、今の音。金属の歯車が噛み合ったよう
な、重厚な音だったけど。


 ――ガギン


 ほら、また。何だろう。私は少し体を起こして周りを見回してみた。
 簾から入り込むごくわずかな光が、部屋の中を薄く照らしていた。普段自分が使ってい
る部屋と内装が違っていて一瞬どこだか分からなかったけど、すぐに思い出す。
 ああそうか、今、地上に向かってるんだっけ。
 ここは空間を歩む牛車の中。カグヤ姫を迎えるための月の乗り物。
 牛車の割に中は相当広く、私が二人いたって届かないほどに天井が高い。装飾も凝って
いて、どこの貴族のお部屋ですかと勘違いしてしまいそう。
 ま、ここにカグヤ姫を迎え入れるんだから、これくらいで普通よね。
 私の隣にはついたてが置いてあり、その向こうでは永琳が寝ている。地上にたどり着く
にはかなりの時間がかかるから、それまで大抵寝て過ごすそうだ。八意思金様はその奥の
部屋にいる。牛車なのに部屋が区分されているこの設計は理解できなかった。
 そっとついたての脇から覗いてみると、永琳は静かに寝息を立てていた。どうも、今の
音は永琳が出したものじゃないみたい。出せたらすごい気もするけど。

 考えても分からないので、私は気分転換に外を見てみることにした。のそのそと床を這
って簾をそっと上げてみる。

「わ……!」

 外には、巨大な青い球体が浮かんでいた。漆黒の壁にぽつぽつと白い点が描き込まれ、
その中で浮き出たかのように地球が鎮座していた。
 大きい。それに凄く綺麗。月からも地球は見えなくもないけれど、こんなに接近して見
たのは初めてだった。ため息が出るほどの壮大さ。透き通るような光(アースライト)。私
はぼうっとしてそれを見つめていた。音もなく、滑るように動く牛車に合わせ、地球がほ
んの少しずつその外見を変えてゆく。青い丸に、白い綿がたくさんくっついている。ふと
その縁に目をやれば、ぼんやりした青い光がまるで結界のように丸を覆っていた。
 本当に、綺麗。地上は穢れたところだって教えられてきたけど、そんなの嘘みたいだわ。
あんなに青く輝いてて、綺麗。
 もしかしたら嘘なのかも。私はふとそう思った。永琳が、月人は驕っていると、生命を
思うままにしようとしていたと言っていたのを思い出した。地上が穢れているというのは、
ただの思想強制なのかもしれない。自分たちを称え上げるための、月人たちの哀しい思い
込み。
 うぅん、なんだかそんな気がしてきたわ。刷り込みを受けていないからかしらね、どう
も月の民がそんなに凄いとは思えなくなってきてるわ。自立人形を作り出すような技術な
んかは確かに凄いんだけど。
 まだ地上につくには時間がかかりそう。私はもう一眠りすることにした。のそのそと這
って布団の中に潜り込む。
 あそこが穢れたところかどうかは、行ってみれば分かること。偏見を持たなければ、き
っとそれが分かると思った。
 もう一度簾の間から見える地球を視界に収めると、私は目を閉じて意識を手放すことに
した。


 ――ガギギン


 あ。
 また――音が。











 地上に着く直前になって、私は永琳に叩き起こされた。いわく、衝撃が強いから着地姿
勢をとってないと手とか足とか折るかもしれないそうだ。それを聞いて慌てた私だったが、
何の震動もなく牛車が地上に降り立ったのと、あっけに取られている私を見てにやついて
る永琳を見て、それが嘘だったということに気がついた。くぅ、またやられた。忘れた頃
にやってくるからたちが悪いわ、この巨乳魔人め。
 ともかく、私がからかわれている間に地上に着いたらしい。
 私は早速外に出――ようとして永琳に首根っこを掴まれた。
 
「貴女の外見は姫なんだから、他の者に見せちゃ駄目でしょう」

 そうでした。使者としてカグヤ姫を迎えに行くのは、私たちを含めて十人。うち、永琳
と八意思金様以外は私がいることを知らないんだった。それでなくとも今までカグヤ姫と
してやってきたんだから、顔を出していいはずがなかったわ。しかたなく、簾の隙間から
外を窺うだけにとどめておいた。
 でも、見えたのは樹木ばかり。建造物なんて全然見えなかった。反対側にあるのかもし
れないと思って移動したら、本当にあった。月の一般的な家に比べて若干小さめだけど、
家には間違いないだろう。
 って、なぜか人が結構集まってる。十人前後かしら、多くはないけど、全員が目を丸く
してこちらを見ていた。なるほど、月と交信なんてとれるわけないものね。月側だって去
年姫の居場所を調べたっきりだし。大方野次馬か何かだろうな。

「では、姫を迎えに行って参りますわ」
「ええ、頼んだわよ」

 永琳は外の様子を確認すると、八意思金様に一礼して牛車から降りていった。他の牛車
に乗っていた人たちを集め、前にある家へ向かっていく。家の前にいる人たちが何か言っ
ているけど、ここからじゃよく聞き取れなかった。

「ふう……これでようやく月も安泰だわ」

 永琳が出て行くと、八意思金様が深く息をついた。
 
「やっぱり私では安心できませんでしたか」

 当たり前だけど、遠回しに役立たずと言われた。仕方ないじゃない、私はカグヤ姫本人
じゃないんだから。と思っても実際に口には出せない。永琳と違ってこの人には逆らえな
い何かがある。私は苦笑してそう答えるだけだった。

「ええ、そうね。この数年間、気が気じゃなかったわ」

 それに対し、八意思金様は本来答えにくいことをあっさり口にしてくれた。永琳のあの
人を小馬鹿にする性格は、間違いなくこの人譲りだわ。

「……そういえば」

 憮然とした表情を作る私だったが、ふと、あることを思い出した。カグヤ姫を月に連れ
戻す際に、どうしても永琳が教えてくれなかったこと。

「カグヤ姫は、どうして地上に落とされたんですか?」

 一瞬、八意思金様のものすごく間抜けな顔が見えた気がした。いや、絶対見えた。この
人もこんな顔するのね。
 とはいえ、私がそのことを知らなかったことに驚いたらしい。だって、何度訊いても永
琳は教えてくれなかったんだもの。それに、カグヤ姫が罪を犯して地上に落とされたこと
も永琳と八意思金様しか知らない。他の人に訊くわけにもいかなかった。

「ふうん、永琳は教えなかったのね。てっきり知っているものだと思っていたわ」
「永琳は絶対に教えようとはしなかったので……」

 かといって八意思金様と顔を合わせることは、国事行為以外じゃほとんどなかった。そ
りゃ仕事が忙しいのは分かるけど、この二人は食事だって一緒に取ることはなかったし。
そういえば、永琳が八意思金様をその呼び名以外で呼んだこともなかったわね。親として
も見てないってことかしら。

「なら仕方ないわね、教えてあげるわ。そもそもの原因は、姫の好奇心」
「好奇心?」

 私がそんなことを考えていると、八意思金様から思いもよらぬ言葉を受けた。好奇心?
好奇心で極刑受けるって、何をやらかしたのよ。

「蓬莱の薬よ」

「え?」

 蓬莱の薬――って。あの、蓬莱の薬?
 月世界において禁薬中の禁薬とされてるあれ?
 
「その表情から見ると、知ってるみたいね。そう、姫は、興味本位で永琳に蓬莱の薬を作
らせたのよ」

 一応、知識としてはね。歴史とか神話とか、ある程度教養ある者なら常識とされてるこ
とはインプットされてるから。
 でも、まさか蓬莱の薬が実在してたなんて。神話とか古代文献の中で、しかも比喩表現
でしか出てこないから精製不可能だと思われてたのに。
 しかも、それを永琳が作った? 情報量が全然ないのに。
 服用すれば不老不死になる月の禁薬、蓬莱の薬。もし服用者が現れたら社会を崩壊させ
る要因にもなりうるから、たとえ実在しない薬であってもその精製、服用は禁じられてい
る。

「でも、姫はそれを作らせた。生憎とすぐに私がそのことに気づいて永琳にやめさせたか
ら大ごとにはならなかったけど……」

 いや、大ごとでしょ。月の姫が禁薬に触れたっていうのに。
 
「それまでも随分我侭し放題だったから、ちょっと腹いせに罰を受けてもらおうと思って。
もともとそのことを知っていたのは私と永琳だけだったし」

 にっこりと八意思金様は笑顔を浮かべた。
 って、腹いせですか? 腹いせで極刑ですか執行総括様?
 私は改めて、今本当に恐ろしい人が目の前にいることを自覚した。腹いせに極刑下すな
んて、どこの世界でもこの人しかいないだろうな。
 でも、落ち着いて考えてみると納得できる部分もある。いや、腹いせは流石に納得でき
ないけど。でも、月の姫が罪を犯してもそれを知っていたのが身内だけならば隠蔽は容易
いはず。流石に禁薬中の禁薬に触れた以上、何かしらの罰を与えなければカグヤ姫をさら
に増長させるだけに過ぎない。気持ちとしては十分に理解できる。腹いせはともかく、カ
グヤ姫に反省させるのならばそれくらいはするべきだったんだろう。たとえ期間が短くて
も、投獄以上の恥をかかされるわけだから効果としては十分なわけだし。期間を短くした
のは、国事に影響が出るから。私のような代理じゃ何十年も保たせることはできないし、
下手すれば民衆の統一にまで悪影響が出ることも考えられる。
 そう考えれば、この処置も妥当なものだと思える。個人的な感情はこの際置いときまし
ょう。

「あの、ちなみにその薬は……?」
「もちろん破棄したわ。それに蓬莱の薬に関係する記述や永琳の作った資料も全てね。だ
から、もう蓬莱の薬が作られることはないわ」

 服用した人物もいないらしい。それなら、社会構造が崩壊起こすこともないわね。
 しかしそこで、私に新たな疑問が起こる。なんとなく、その答えに察しはつくけれど。
 
「あの、それなら……。刑罰は永琳にも与えるべきだったんじゃ……?」

 薬を作らせたのはカグヤ姫だけれど、実質のところは何もしていない。確かに反省のた
めに地上に落としはしたが、蓬莱の薬を作ったのは永琳だ。となれば、永琳だって大罪を
犯していることになる。でも、この数年間付き合ってきてそんな印象は受けなかった。

「ああ、そうね。言っておくけど、あの子が私の娘だから許したわけじゃないわよ? 理
由は二つ。蓬莱の薬に関する事件は私がもみ消したから、永琳が極刑を受けるような事情
がなかったの。姫の刑罰だって誰も知らないし。もう一つは、永琳を失うことは月の政治
に多大なダメージを与えることだから。姫はいなくなっても貴女みたいな代わりがいるか
らいいけど、永琳の代わりができるような人はいないからね」

 ――黒い。永琳も十分腹黒いと思ってたけど、この人はそれ以上だわ。確かに一理ある
けど、全然他人のことを考えてない。月の最高権力者は、現人神さえ恐れていなかった。
 なんて、恐ろしい。その笑顔の裏には、計り知れない闇が潜んでいるのが分かった。

「ふふ、ところで」
「はい?」
「傷はどう? 痛むのかしら?」

 いきなり話が飛んだので頭が追いつかなかった。ああ、傷って昨日のね。
 そういえば永琳もよく話が飛ぶことがあったわ。本人の思考の回転が速いからだと思っ
てたけど、この人を見てると、ただの親譲りじゃないかと疑ってしまう。似たもの親子ね、
この人たちは。ひょっとしたら家系そのものがそうなのかも。まともじゃないわね、八意
家。

「ええ。痛みはしますけど、機能には何の問題もないです」

 腕かすっただけだからね。私の体には一応五感の他にもちゃんと皮膚感覚が備えられて
いる。ただし痛覚に関しては多少鈍くしてあるから、この程度の傷であれば痛みはあんま
りない。明日になれば痛みもひくだろう。


 ――ガキン


 う、またあの音が。
 何なのかしら、一体。念のため八意思金様を窺ってみるが、今の音に何かしらの反応を
示した様子はない。この音は、私だけにしか聞こえていないみたい。
 もしかしたら本当は問題あるのかもしれない。でも体が痛むこともどこかに違和感を覚
えることもない。何かしら異常が起きているとは思うんだけど、自分じゃ確認できなかっ
た。遅効性の何かなのかもしれない。どっちにしろ、永琳が戻ってきたら訊いてみるしか
ないわね。

「そう、それにしても不思議ね」

 原因及び詳細不明の音に私が悩んでいると、八意思金様が口を開いた。
 
「え、何が……ですか?」
「どうして貴女が破壊されなかったか、ということよ」
「は?」

 何言ってるの? この人。私が、破壊?
 
「え、ええ。まあその、腕をかすめた程度ですから」

 頭が混乱しかけたが、なんとかとどまって私は撃たれた腕を見せる。傷は癒えてないか
ら包帯は巻いたまま。

「ああそうじゃなくてね、どうして永琳が貴女を破壊しなかったか、ということなの。狙
撃した子は腕が悪かったか頭が悪かったかどっちかだろうから」
「え? え?」

 何? 今、永琳って言った?
 
「……な、何のことですか?」

 ぐるぐる回る思考を無理矢理押さえつける。またフリーズしたりなんかしたら、聞かな
ければならないことを聞き逃してしまいそうな気がした。私は自分を落ち着かせるために
姿勢を直して八意思金様の正面に正座した。体を動かせばそれだけで気持ちの切り替えは
できる。

「うーん、あの子は私が計画したものでもいつも勝手に変更しちゃうからね。特別に貴女
にばらしちゃうわ。意地悪を兼ねて」

 そう言って、悪戯っぽく八意思金様は笑う。だけどその内容は悪戯なんて可愛いものじ
ゃない。その笑みだって、全然「笑顔」になってない。
 何て言った? 永琳が? 私を破壊しなかった? どういうこと? 永琳は私を破壊し
ようとしてた? どうして?

「本当はね、貴女は昨日の時点で破壊、あるいは機能を完全に停止される予定だったの」

 私の疑問に答えるべく、八意思金様は語り始めた。一言一句聞き逃すわけにはいかない。
私は思考をフル回転させ、八意思金様の話を整理しようとした。

「晦日の儀の中盤で撃たれたでしょう? あれは永琳が、犯罪者に釈放とその後の生活保
障を条件に貴女を撃つよう命令したの。その子はもちろんもう殺しちゃったけどね」

 笑顔じゃない笑顔を絶やさぬまま、八意思金様は語る。こうして聞いていると、意外と
子供っぽい話し方をするけれど、今この状況においてはとても聞いていられないような耳
障りな話し方だった。

「その時点で貴女は核を撃ち抜かれるはずだったのよ。でも腕が悪かったのか、それとも
姫を信仰してしまっていたのか、その子は貴女の腕にかすり傷をつけるだけにとどめてし
まったわ」

 それでも聞かなければならない。私は八意思金様の話に耳を傾けた。
 
「でもそうなることは予測の範疇だったわ。その場合、永琳が貴女を運んで壊す予定だっ
たのよ」

 そして、恐ろしい事実が告げられる。
 つまり何か、あれは家臣の誰かが私を疑って撃ったんじゃなくて、永琳が初めから計画
してやらせたことだっていうの!?

「最初にこのことを考えたのは私だけどね。貴女が撃たれれば、その後の色々な会合やら
何やらは全て自然にキャンセルできるから。初月の儀までに本物の姫を今の地位に慣れさ
せることが可能になるからね」

 『それにしても、見事に狙われたわね。ある意味で警戒が一番緩む中盤を狙ってくると
は大したものだわ』。昨日の永琳の言葉が思い返される。
 永琳。あれは、あんたが仕組んだことだっていうの?
 
「そういう手はずだったわ。でもなぜか貴女はここにいる。これは永琳の意思だろうけど、
でもどうしてなのかしら。まさか情が移ったなんてことはないわよねえ」

 人差し指を顎に当てて、八意思金様は小首を傾げる。可愛いつもりだろうが、気色悪い
ことこの上なかった。どこまで深いのよ、この人の闇は。

「あれは……あれは、あなたが計画して……?」
「初めからそう言ってるでしょ? 物分かりが悪いわねぇ」

 ふぅ、と呆れたように八意思金様はため息をついた。
 
「……どうして。どうして私が破壊されなきゃならないっていうんですか!?」

 八意思金様につかみかかりそうになる衝動を抑え、私は正座したまま尋ねる。といって
も声は既に震えていて、思考は今にも爆発してしまいそうだった。
 もちろん、他人の気持ちを意に介さない八意思金様がそんなものに驚くはずもなく。彼
女は至極あっさりとその答えを返してきた。

「あのね、姫と同じ顔した人形を自由にできるとでも思ってるの?」

 本当に呆れたといった表情だった。その言葉に、悔しさがこみ上げる。
 正論だけど、正しいけど。でも! こんなことが――。
 
「技術のある子はみんな殺しちゃったからねえ。貴女の顔を作り変えるくらいなら、廃棄
処分したほうが楽だったのよ。確かに貴女は月の技術の結晶だけど、一度作られたのなら
二度目だってありうるもの」

 八意思金様はくすくすと笑う。
 それじゃあ何? 私はカグヤ姫の我侭から作られて、こいつらの我侭で消されなきゃな
らないっていうの!?

 そんな、馬鹿なこと――!

「それにね……人形風情があの場所にいたことを、早く忘れたいのよ」


 ――ガキン


 音が聞こえた。困惑する私を追い詰めるかのように、歯車のぶつかり合うような音が私
を襲う。
 うるさい。うるさい――!
 そんなこと、あるわけがない!
 私は破壊されてない! 永琳はちゃんと私を残しておいてくれてる!
 そうよ、永琳がそんなことするはずがない。この人とは普段から接点がなかったからそ
う思われても仕方ないかもしれないけど、永琳とはずっと付き合ってきた。こいつなんか
よりずっと理解し合ってるもの。
 永琳はきっと、心変わりしてくれたんだわ。あれだけ一緒にいたんだもの。壊されるわ
けがないわ。
 こんな巫山戯た理由で消されてたまるもんですか!
 永琳がどうして私を壊すのをやめたのかは分からないけど、それは永琳に聞けばいいだ
けのことだわ。
 少し落ち着いてきたかな。私は立ち上がると、八意思金様から離れて簾からそっと外を
見てみようとした。永琳が帰ってくるのが遅い気がしていた。


「いぎっ……!」

 え?
 何? 今の、悲鳴は?
 私は外の様子を覗いてみた。

 そして、言葉を失った。


 何本もの矢に貫かれた死体が、紅い地面に落ちようとしていた。







 簾を叩き飛ばして私は飛び出した。途端、辺りに血臭が漂っていることに気がつく。
 見れば、地上人と思われるものの他に、月人の死体までもが地面に転がっていた。
 皆殺し。そんな単語が私の頭に浮かぶ。
 その骸たちの上に、見慣れた人影があった。
 私たちのいたあの月の光を受け、永琳はそこに静かに佇んでいた。
 
「え……い、りん?」

 その手に彼女の武器である弓を持ち、永琳は私を見つめる。月の光を背にしているため、
表情はよく分からない。
 だけど、氷よりもずっと冷たい眼差しが、私を捕らえて離さなかった。
 
「ど……どうしたの? 何があったの?」

 キリ、と何かを引く音が聞こえた。
 
「!!」

 咄嗟に私は体を横に逸らす。直後、背後の牛車に矢が一本突き刺さった。
 再び永琳に目を向けると、まさしく矢を放った体勢で立っていた。
 いつ射ったの? というか、なんで射られなきゃならないの?
 『永琳が貴女を運んで壊す予定だったのよ』。八意思金様の言葉がリフレインする。
 違う! そんなはずがない! 私は必死になってそれを頭から追いやる。
 
「どうしたのよ永琳! こんな……どうしてこんなことを!?」

 立ち位置が変わったために、永琳の顔が光の中に浮かんだ。
 二十人ほどの人間を殺したせいで、永琳の体は血にまみれてしまっていた。特に右半身
が酷い。スカートは足元が汚れているだけだったが、右肩や顔にまで鮮血がべっとりとつ
いてた。背筋が凍るほど、その姿は禍々しかった。

「もう、終わりよ……」
「え?」

 永琳が何か呟いた。残念ながら私の耳には届かない。近くで聞こうかとも考えたけど、
あれだけ殺気を放っている永琳に近づくのは得策じゃない。私は集中して永琳の声を聞く
ことにした。

「貴女たちはここで終わりよ。姫は……月に帰りたくないと仰ったわ」

 さっきよりははっきりした声で、永琳は衝撃的な事実を伝えた。
 月に帰りたくない? この穢れた地上にとどまるっていうの?
 
「どうして……」
「どうも、地上に愛着が湧いてしまったらしいわね。まったく、生まれ変わっても我侭だ
けは治っていなかったわ……」

 永琳は後ろにある家のほうを向いて苦笑した。その表情は私がいつも見ているものと同
じで。まるで子供を仕方なく叱るときのような柔らかい表情で。
 だからこそ、今はそれが何よりも恐ろしかった。
 
「それが……それがどうしてこれとつながるっていうのよ!?」

 冗談じゃないわ。たかがそんなもののために月人どころか地上人まで殺すなんて。どう
してそんなことをする必要があるの?
 激昂して私はただ叫ぶ。恐怖で金縛りに遭いそうな気がして、強がるためでもあった。
 
「……答える必要はないわ」

 そんな私を、永琳は睨みつける。襲い掛かる殺気が、私を押しつぶそうとしていた。
「でも、貴女だけには答えてあげる。私はね、姫の犯した罪に加担していたのよ。という
よりも、私こそが主犯といってもいいくらいね」

 罪に加担――。八意思金様が言っていた、あの。
 
「蓬莱の薬……」
「あら、知ってたのね。八意思金様が教えたのかしら?」

 私の口から漏れた単語に、永琳は意外そうな顔をした。しかしすぐにその理由を突き止
める。 ――鋭い。何人もの人を殺しておきながら、永琳は冷静そのものだった。

「そう、蓬莱の薬を精製したという点でいえば、私が最も罪が重いといえるわ。他に誰も
あの薬を手にしていないんだから。でも私は無罪で、姫だけが地上に落とされてしまった
……。その理由は、まあ分かるけどね」

 八意思金様の話通りだわ。永琳も自分が月に必要な人物であることは分かってるのね。
 
「私のせいなのよ、姫が地上に落とされたのは。私が隠蔽工作をもっとしっかりやってい
れば、八意思金様に見つかることもなかったわ……」

 作らなければ、って考えない辺りが永琳らしいわね。きっと隠し通せる自信があったん
だろうな。結局、見つかっちゃったけど。

「だから……今度こそは姫を守りたいと思っていたの。もう絶対に、こんな馬鹿なことが
起こらないように……」

 カグヤ姫に変わってもらおうとは思わないのね。それとも、無理なのかしら。カグヤ姫
の一番近くにいたのが永琳なんだし、そうなのかもしれない。生まれ変わったとはいって
も、本人は何千年と生きているんだから。

「姫は月に帰りたくないと仰ったわ。だから、私もここに残る。そして……このことは絶
対に月に知られてはいけないの。たとえそれが時間の問題であったとしても、貴女たちに
追いかけられるわけにはいかないのよ」

 空気が、変わった。
 鎮まっていた永琳の殺気が、再び頭をもたげる。
 
「月の使者を殺し、姫を知る者たちを始末し、もう誰も私たちを追えないようにする。姫
が望むことを、私は今度こそ叶えてみせる」

 ――永琳。それが、あなたの望み?
 
「……馬鹿げてる」

 私は呟いた。
 
「おかしいわよ。どうしてそうなるの? 地上は穢れたところじゃないの? カグヤ姫は
ともかく、永琳はそんなところに住みたいの?」

 地上が穢れてるかどうか、私には判断できない。でも、永琳はそう思ってたはず。カグ
ヤ姫への想いは、それを無視できるほどに強いっていうの?

「それに、永琳が地上に残ったら月はどうなるのよ!? 月に欠かせない人物が、そんな
理由で離れていいわけないじゃない!」

 くだらない止め方だって分かってる。こんなの、汚いって分かってる。
 でも、私も永琳と一緒にいたい。ううん、永琳たちと一緒に月で暮らしたい! この顔
だけど、変えるのは難しいけど、それでも一緒にいたい!
 なんとか引き止めたかった。どうにかして、永琳をこっちに戻したかった。
 
「姫がいるのなら、私はどこだってかまわない。月がどうなろうと、かまわないわ……」

 だけど。
 
「カグヤ姫を説得しようとは思わないの!?」

 その目は、絶対に変わらないと語っていた。
 
「姫の望みを叶えたいと、言ったはずよ」
「永琳!!」

 叫ぶ。永琳の言い分を認めたくなくて、私は闇雲に叫んだ。永琳の殺気も忘れるくらい
に。


 けれど――。


「……そう、分かったわ」
「え……」
「そこまで言うなら、仕方ないわね」


 私は、気づいてしまった――。


「永琳……じゃあ」


 彼女が初めから――。


「そこまで言うなら……かかってきなさい、イルル」
「……は?」


 私を破壊(ころ)してしまうつもりだったことに――。











「この月の頭脳、八意永琳が……格の違いを教えてあげるわ」













 ――ガキン


 凍りついた世界の中で、その音だけが私の頭に響いた。


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