小  説

49-ヒトガタの想い・外伝 〜貴女を求めて






 夜風が耳を通り抜けてゆく。死体だけが残された地上で、永琳はぼんやりと月を見上げ
ていた。夜空を照らし、銀の満月が永琳に光を浴びせる。顔も服も血まみれになって、永
琳は月夜の中にたたずんでいた。

「私は……何を失ったのかしらね……」

 ぽつりと永琳は呟く。イルルナーダの言ったことを、永琳は理解できなかったわけでは
ない。しかし永琳にとって、永遠の命を手に入れることは必ずしも生命を捨てることには
つながらないのだ。
 もし確実に失ったものがあるとすれば、それは月の生活。しかし、今はそんなものに興
味はない。輝夜と共にいることこそが永琳の望みであり、そう考えればむしろ輝夜のいな
かった月の生活など捨てたほうがよいものだった。
 しかし、この胸にある虚無感はなんなのだろうか。永琳にとって決して多くはない死体。
おそらくこれのせいではない。命を失ったわけでもないし、かつての生活は失っても悲し
くはない。だが、永琳は確かに空虚さを感じていた。

「あの子がいなくなったから? ……ふん、まさかね」

 カグヤ姫そっくりに作られた人形を思い出す。しかしその中身はカグヤ姫とは似ても似
つかなかった。カグヤ姫のような魅力はなく。永琳のおもちゃにされて。
 そして、誰よりも一生懸命に「生きて」いた。
 思い出して、永琳は苦笑する。人形が「生きる」などと。
 あの人形は、本当に戻ってくるのだろうか。命の意味や自分の存在意義。そんな見つけ
られないものを見つけるために世界を旅して、いつか自分の元に帰ってくるのだろうか。
いや、見つけられないのなら戻ってくることはないだろう。動いていられる時間はせいぜ
い千年強。それだけの時間の中で、そんなものが存在しないことに気づくだろうか。いや、
きっと気づかない。あんなにも馬鹿なのだから。
 こちらには無限に時間がある。決して帰ってこない馬鹿者を待つのも、いいかもしれな
かった。

「さて、と……」

 とりあえず、人形のことはおいておこう。にやりと笑みを浮かべて、永琳は振り向いた。
今はそのことよりも、やらなければならないことがあった。

「随分と遅いご登場ですね。八意思金様……」

 そう、後始末だ。








 牛車から降り立ち、八意思金は永琳を見つめた。周囲の死体にはさほど興味はなさそう
だった。

「……はぁー」

 八意思金は、なんとも困り果てた表情で大きくため息をつく。ゆるゆると首を横に振っ
て、自分のそばにあった月人の死体を蹴りつけた。ごつ、と死体が跳ね、また地面に落ち
る。

「やっちゃったのね……」
「やっちゃいましたわ」

 呆れた、というように八意思金が声をかける。永琳はくすくすと笑いながらそう返した。
 
「なぜ、というのはこの際おいておくわ。姫は?」
「しばらく隠れてもらってます。巻き添え食わせたくはないので」

 なるほど、と八意思金は呟いた。どうやら永琳がこういう行動に出たことを理解したら
しい。話が早くて助かる。いずれにしろ理由を答えるつもりなどなかったが。

 せっかく月から迎えに来たというのに、輝夜は月に帰りたくないと言い出してしまった
のだ。地上人たちに世話になったのと、地上の生活も決して悪くなかったためだった。月
でも我侭し放題に育てられてきたが、地上の生活はそれ以上によい場所だったらしい。永
琳は輝夜が罰を受けてしまったことに責任を感じていたため、月へ連れ帰ったら今度こそ
輝夜に真摯に仕えていこうと思っていた。しかし、その輝夜が月に帰りたくないといった
のでは本末転倒である。

「永琳、今ならまだこの虐殺も不問にしてあげる。すぐに、姫を連れてきなさい」

 だから、永琳も地上に残ると決めたのだった。もう二度と、輝夜に辛い思いをさせない
ために。
 一生守っていこうと、決めたのだ。
 
「お断りします。姫は……渡しません」

 だから、八意思金には従えない。永琳は表情を引き締めた。イルルナーダと戦ったとき
は全く実力など出していない。だが自分の親ともなれば話は別だ。力は自分のほうが上だ
と思うが、圧勝できるとは思っていなかった。
 それでも、確実なアドバンテージが永琳にはあるが。
 空気が変わる。月人の中でも比較的長い時間生きてきたが、いまだかつて八意思金と相
対したことはない。自分の力は全て自分で磨いてきたため、永琳も八意思金の実力は知ら
なかった。

「永琳……月に、戻りなさい」

 しかし、八意思金を殺さなければ先はない。永琳は八意思金からの威圧を退け、きっぱ
りと言い放った。

「お断りします。私は、姫と共に地上で生きます」

 視線が交錯する。互いの想いがすれ違う。
 八意思金の言いたいことは分かっていた。月の最高責任者として、月に混乱を招きたく
ないのだ。処理が面倒などという次元の話ではない。月の世界全てに悪影響が出てしまう
のだ。
 だが、それが何の障害になろう。捨ててしまえば関係ない。殺してしまえば関係ない。
むしろ、月など立ち直れないほどに衰退してしまえばいいのだ。そうすれば、誰かが輝夜
を追ってくることもない。
 必要ないのだ。月に関する全てのものが。
 
「そう……分かったわ」

 八意思金がひゅんと手を一振りする。するとその手に、不思議な形をした弓が現れた。
弓矢は八意家が代々使う武器らしく、永琳もそれには従っていた。実際、何かで決められ
ているのではいかと思うくらいに弓矢は使いやすいのだ。それは八意思金にも当てはまる。
力の具現化した弓を八意思金は構えた。

「たとえ貴女や姫であっても、地上に残ろうなんて考える者を月に連れて行くわけにはい
かないわ。本当に、残念だけど……」

 矢が作られる。自分と同じように、強大な魔力を形にし、八意思金はそれを永琳に向け
た。

「八意思金の名にかけて、穢れた貴女を浄化(ころ)します」








 しかし、戦闘はそう長くは続かなかった。
 八意思金が自身の力を解放した時点で、永琳は自分の勝利を確信していた。永琳のほう
がずっと魔力が上だったのだ。八意思金も決して弱くはないだろうから腕をもがれるくら
いはあるだろうが、それでも自分の勝ちは揺るがなかった。

 そして、八意思金の死は既に目前。牛車にもたれかかり、八意思金は血まみれになって
なんとか立っていた。その表情は虚ろだが、それ以上に驚きが見て取れた。
 永琳は止めを刺すために八意思金に近づく。意識を保つのもやっとらしい八意思金は、
鈍い動きで顔を上げて永琳を見た。

「……ど、どうして」

 呼吸もままならず、声を出すたびにひゅうひゅうと空気が鳴る。それでも八意思金は、
その疑問を口にした。

「どうして……蓬莱の薬、が……?」

 がふ、と血を吐き出す。全身にくまなく致命傷を与えたのだ。まだ生きているほうが奇
跡に近い。
 戦闘の中で、永琳は一度心臓を貫かれた。尋常でない痛みと苦しみが永琳を襲っていた。
しかしそれ以上に、心臓を破壊されれば誰だって死んでしまう。だが永琳はこうして生き
ていた。
 なぜなら、永琳は不死の妙薬、蓬莱の薬を飲んでいたからだった。ゆえに、どれだけ致
命傷を与えられようとも即座に回復してしまう。怪我をすれば確かに痛いが、どこをやら
れても死ぬことはなかった。

「どうして蓬莱の薬が存在していたのか、ですか?」

 永琳は八意思金の顔を覗き込む。既に視力は失っているようだ。だが聴覚は残っている
から永琳がそこにいるのは分かるのだろう。八意思金はわずかにうなずいた。

 蓬莱の薬は月にだけ存在し、そして月では決して触れることを許されない薬である。不
死人ができたらどうなるか。社会で最も危険な存在になってしまうのだ。
 だから、たとえ蓬莱の薬が月世界でも伝承のものであろうと、精製することは禁じられ
ていた。資料がほとんどなかろうと、禁薬に指定されていた。

「確かに、蓬莱の薬に関する全ての文献や資料、およびサンプルは貴女によって破棄され
てしまいました」

 永琳は八意思金が聞き取れるように、ゆっくりと説明をしていった。

 薬の家系で、その中でも最高の天才、八意永琳。永琳はカグヤ姫の好奇心から蓬莱の薬
を作ることになったのだ。自分でも一度手をかけてみたいところもあったので、禁薬と知
っていても作ろうとしたのだ。
 そしてそれは見事に完成する。幾百もの曖昧な文献から、永琳は確かに不死人になる薬
を作り出すことができた。
 だが、それはすぐに八意思金に知れることになる。そのせいでカグヤ姫は地上に落とさ
れることになったのだ。そして同時に、二度とこんなことが起こらないよう、蓬莱の薬に
関係するものは八意思金の手で全て破棄された。

「ですが八意思金様。お忘れですか? 私は月の頭脳ですよ?」

 しかし永琳は、地上に来る前にもう一つ蓬莱の薬を作っていたのだ。輝夜を永遠に守る
ために、自分を永遠にするために。



「蓬莱の薬の精製に必要な数百の材料、製法、術式……私が覚えていないとでも思ったの
ですか?」



 失われた薬を、永琳は精製中に蓄えた己の知識のみで復活させたのだ。輝夜の持つ永遠
の力が必要だったために、地上に来るまで完成させることはできなかったが。
 八意思金の表情が凍りつく。わずかな変化でしかないが、それは確かに驚愕していた。


 ――あっはははははははははははははははははは。


 そのおかしさに、永琳は声を上げて笑ってしまった。八意思金を心底驚かせるなど、も
う永遠にない。無論、これから殺すからなのだが。

「貴女は私を見くびった。もっとも、貴女程度では私に追いつくことなんてできないでし
ょうがね」

 格下が、自分に追いつくことなどありえない。馬鹿が自分の考えに及ぶはずがない。最
後にその顔を見られて、永琳は満足した。

「まあ、それでもその歴史は欲しいですがね」

 後は、全てを終わらせるだけ。もちろん永琳は、その術式も独学で体得していた。本来
は先代が儀式を通じてのみ継承される。だが永琳は初めから、自分の手で全てのものを支
配しようと考えていたのだ。

「さあ、いただきますよ。幾千幾万もの時間の中で綴られた、全ての知識(オモイカネブ
レイン)を」

 八意思金を牛車に貼りつけ、飛び散った血で魔法陣を描く。八意思金は絶望のためか死
んでしまったのか、ぴくりとも動かない。おとなしくしてくれたほうがやりやすいが。
 永琳は詠唱を始める。それは自分が新たな八意思金になるための術。初代八意思金神が
代々受け継がせてきた、永遠に近い歴史と知識。オモイカネの全てを、その術によって継
承するのだ。決して、儀式を通じる正式なものではないが。
 そして光が、二人を包み込む。
 
「さようなら、母様……」

 八意思金でなくなった、そして生き物でもなくなったものに、永琳は最期の別れを告げ
た。











 さく、さく、と永琳は森の中を歩く。輝夜が相当臆病でなければそろそろ追いつくはず
だろう。永琳は周りに誰かいないか確認しながら、落ち葉を踏みしめていた。

「永琳」

 と、もうしばらく歩いたところで永琳は呼び止められた。一応隠れているつもりなのだ
ろう。茂みの向こうに輝夜がいるのが見えた。

「姫。ご無事でしたか?」
「当たり前でしょ」

 まさかとは思うが、万が一イルルナーダが行っていたら、というのを考えていた。無論、
襲われたところで輝夜にかなうはずもないから心配は要らないのだが。

「あらら、随分汚れてるわね」

 茂みから出てきた輝夜は、永琳の姿を見て開口一番そう言った。そういえば、永琳は月
人や地上人の返り血を浴びたまま放置していたのだ。言われてみれば顔や髪についた血が
固まり、触れればぱらぱらと落ちてくる。永琳は自分の服を見直してみた。右肩と左足の
スカートが特に血で汚れていた。黒い服の上に紅い血が塗りたくられ、市松模様のように
なってしまっていた。
 血の穢れ。罪の穢れ。それを背負うには、この姿はふさわしいかもしれない。永琳は自
嘲した。哀しみをたたえ、しかし何かを吹っ切った表情で永琳は笑う。

「……行きましょう」

 今は、あの場所から離れたかった。
 数年という、永遠から見れば一瞬にも満たない時間。だがその間の苦悩は、永遠に等し
いほど長かった。輝夜を救うために、ずっと思い悩み続けてきた時間。
 それが今ようやく終わったのだ。もう、一秒でも過去のことなどどうでもいい。今はた
だ、隣にいる、かつての姿を失ってしまった姫君と共にいたかった。
 あてなどない。だが、月に住むよりは数段ましだろう。輝夜がそう言うのだから。


「そういえば、お別れはしたのですか?」
 あてどもなく森の中を歩き、ふと永琳は輝夜に尋ねる。輝夜を養っていた老夫婦は、輝
夜と一緒に逃げたはずだった。しかし今はいない。輝夜が純粋な人間でないと知り、逃げ
出したのだろうか。それはそれで好都合なのだが。

「そうしたわ。もともとあそこはおじい様たちの家。本来なら私が出て行くべきなのよ」

 輝夜は答える。地上に愛着があると言っていた割には、いやにあっさりした言葉だった。
自分がいることで起こる迷惑をかけたくなかったのかもしれない。

 永琳が家を訪ね輝夜を連れて帰る旨を伝えた際、二人は驚くよりも非常に嘆き悲しんで
いた。数年とはいえ養った輝夜を失いたくなかったらしい。だがそれを聞き入れるわけに
はいかなかった。輝夜が地上にとどまるならば希望もあったかもしれないが、輝夜自身、
既に人がたくさん集まる今の生活に嫌気がさしていたようだ。いずれどこかへ行かなけれ
ばならないと考えていたらしい。かといって老人二人を人のいないところまで連れて行く
わけにもいかないし、生活させるのも困難だと思った。

「二人は、また会いに来るかしらね……」

 ならばせめて、と永琳は二人に蓬莱の薬を手渡した。少量だが、服用すれば確実に不死
になる。永遠に生きていれば、いずれまた会えると言っておいた。

「どうでしょうね。あの二人が愚かならば……それもあるでしょう」

 輝夜の言葉に、永琳はそう答える。使うかどうかは分からない。老夫婦の輝夜への想い
がどれくらいだったのかは、永琳には分からなかった。

「愚か、ね……」

 輝夜がちらりと永琳を見やる。そうしてくすくすと笑い出した。
 
「なら、あなたも相当な馬鹿ね、永琳。わざわざ私のために永遠になるなんて。そんなこ
とのために、こんなに穢れちゃって……」

 立ち止まり、輝夜は永琳の頬を撫でる。手を離すと、血の箔がぱらぱらと舞い落ちた。
 
「ええ、その通りですわ」

 その言葉に、永琳はにっこりと笑ってうなずいた。
 分かっている。自分を捨てたことなど。これを得るために、たくさんのものを失ってき
た。月を、親を、有限だった己を。自分は馬鹿者に違いない。
 けれど、それがどうしたというのだ。永遠を守るために永遠になる。それくらい、自分
にとっては何てことない。永遠を、永遠に、永遠となって守り続けてみせる。


「ところで永琳。八意思金になったの?」

 夜風を受け、二人は歩き続ける。どこへ向かっているかは分からない。だが、永遠の時
間がある以上どこかに行かなければならないということもないだろう。
 そんな中、今度は輝夜が永琳に尋ねた。
 
「ええ、実質は」

 永琳はうなずく。

 「八意思金」というのは本名ではない。八意家の始祖八意思金神以来、子孫に継承させ
てきたその能力と歴史を持った者のことを指す。だから永琳は母親の本当の名前を知らな
かった。無限に近い八意思金の能力と歴史は、当代が特別な儀式を行うことによって子に
継承させる。それは継承時まで門外不出の秘儀だった。
 しかし永琳は、独自にその儀式の中心である術を体得していた。だから、八意思金を殺
す際にその術を使って全ての能力と歴史を手に入れてきたのだ。

「今の私には、地上や月の人間が生まれていない時代の記憶もありますわ」
「あはは。いつも思うけど、気色悪いわねえ」

 儀式を通じてはいないが、それはあくまで形式的なこと。能力から見れば、永琳は八意
思金そのものになっていた。

「じゃあこれから八意思金って呼ばなきゃいけないのかしら。長くて嫌なんだけど」

 八意あるいは思金で名前を切るようなことはない。輝夜は名前を呼ぶのも面倒くさがっ
て、月にいた頃も八意思金と話すことはあまりなかった。

「もちろん、その必要はありませんわ」

 だから永琳は首を横に振る。常々、八意思金を名乗ることは不愉快なものだと思ってい
たのだ。

「私は八意思金ですが、八意永琳のままでいます。そうすることで、無限の歴史は私に跪
くことになりますから」

 八意思金は八意永琳の内にある。厳然としてある八意永琳を、八意思金は超えることが
できない。それが永琳の考えだった。幾億年もの歴史も、強烈な力も、永遠となった自分
の要素に過ぎない。

 そう、八意思金などもういない。その永い歴史こそが永琳の歴史であり、積み重ねられ
た知識と能力こそが、初めから永琳のものだったのだ。

「……ふふ、永琳らしいわ」

 その自身に、呆れながらも輝夜はうなずいた。二人で一緒に微笑み合う。
 求めていたのは、この笑顔だった。我侭ばかりで疲れることもあったけれど、永琳には
輝夜が必要だったのだ。


「姫」

 す、と立ち止まり、永琳はおもむろに輝夜の前に跪いた。
 
「貴女を一生(ずっと)、守り続けます……」

 これは誓い。蓬莱の薬という禁忌を犯してなお、永琳が求めていたもの。
 それを守るために、永遠という名の生涯を捧げよう。もう誰も、彼女を苦しませること
ができないように。
 輝夜は永琳の行動に驚いたようだった。しかしそこは元月の姫。目で見ることはなくと
も、身に纏う雰囲気が変わったのが永琳に分かった。

「ええ、頼むわ」

 その声は、かつて月にいた、姫君としての声。全てを治め、全てを魅了する狂気ともい
える響きだった。

「八意永琳。私の忠実な従者として、私と共に生きなさい」
「ええ。仰せのままに、輝夜姫」

 そして永琳は、その決意を改めて揺るがないものにするのだった。
 たとえそれが、輝夜の操り人形になることであっても。






 誓え。
 永遠の琳(たま)に照らされた、輝く夜を守ることを。
 青に輝くこの琳で、罪という名の永夜に生きることを。

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