小  説

70-Zephyr 第一話(その3)

翌日。
 1500段近い階段の昇降は、結城の脚に遠慮なく影響を与えた。既に昨日の夕食頃か
ら予兆はあったが、朝になってその痛みは濁流のように押し寄せてきていた。

「……ぐおおお…………!」

 なんとか起きあがって部屋の中を歩いてみたが、骨ではなく筋肉から音がする。不吉な
響きと痛みに、結城は顔をしかめた。
 朝食はとったが、動けないのですることがない。しかし頭はクリアーなもので、限りあ
る時間をこのまま浪費するなと叱咤する。

「……けど別に、こうやってダラダラするのもいいよな」

 そう呟いて結城は、布団の上にごろんと横になった。
 事実、無駄に時間を過ごすということは、ここ数年やっていなかった気がする。大学を
中退して新聞社に勤めたものの、平日休日昼夜問わず常に最前線で働いてきた。毎日せか
せか動き回っていたせいで、のんびり過ごすことを忘れていたのかもしれない。ほんの三
年前は、まだ高校生だったというのに。
 鳥の鳴き声と木々の葉ずれの音。それ以外は何も聞こえない、静寂の世界。青空に白い
雲が浮かぶ、のどかな風景。ここが自然に囲まれた田舎であることを、結城は実感した。
心が波立たぬ水面になるようだった。
 ふと、昨日会った少女のことが思い出される。夕陽に照らされ、儚げに見えた少女、秋
月絣。赤光の中で見た笑顔は印象的だった。
(……また、会いたいな)
そう思った時には、結城は既に立ち上がっていた。脚が警告音を発するが、構わず歩き出
す。
 だが、「みよし」を出たところで、絣がどこにいるのか分からないことに結城は気付い
た。思いつきだけで行動した自分を後悔する。しかし、悪戯に脚を痛めるのも面白くない
ので、結城は、とりあえず神社に行こうと決めた。またあの階段を登るのかと思うとうん
ざりするが、少しずつ登ればリハビリになるかもしれないと思った。それに、もう一度街
全体を見てみたかった。
 脚になるべく負担をかけないよう、ゆっくりと歩く。亀の歩みでも端まで行ける三好町
だ。いくら時間をかけたところで辿り着くことは可能だった。
 30分ほどかけて石段が見える所まで来たとき、結城はそこに人が二人いるのを見つけ
た。石段に腰掛けている二人は、どうも女性のようである。
 その片方が、結城を指さしてもう一人に何か言っている。と、立ち上がってこちらに駆
け寄ってきた。もう一人もそれに続く。
 近くまで来た所で、結城は後から来るのが絣であることに気付いた。長い黒髪を揺らし
た少女なので、すぐに分かったのだ。もう片方は、茶髪の髪を両サイドでアップにしてツ
インテールにした、絣と同い年くらいの少女だった。

「絣、この人でしょ?」

 ツインテールの少女は結城のそばに来ると、追ってきた絣に話しかけた。
 
「う、うん……」

 絣は少し気まずそうに答える。少女はそれを聞くと、満足そうに結城の方を振り返った。
 
「じゃいいや。川本結城さんですね?」
「え、そうだけど……」
「どもども初めまして。私(わたくし)、絣の親友の近山(ちかやま)成羽(なるは)と申しま
す」

 成羽は小気味よい口調で自己紹介をする。結城はどう答えて良いか分からず、はあ、そ
うですか、と間抜けな返事をしてしまった。

「ふーん……」

 成羽は一歩近づいて、結城をまじまじと見つめた。猫のような目が特徴的な成羽は、ど
う見ても美少女の類に入るだろう。何をしているのかと思い、結城は少したじろぐ。

「……何か?」
「……ん?いえ、普通の人だと思いまして」

 またしても返答に困る言葉を、成羽は口にする。後ろで絣が不安そうな顔をしていた。
 
「いえね、昨日夕飯食べてる時に、神社に知らない人が来たって絣が言ったんですよ。若
い男の人。どんな物好きかと思って。ほら、こんなバカみたいに長い階段登る人、そうは
いないでしょう?」

 成羽は、確実に四桁はある石段を指さす。結城は頷いた。
 
「まあな。けど、初対面の人間を物好き呼ばわりするのは、結構失礼だぞ?」
「ありゃ、これは失礼。けどまあ、三好に外から人が来るなんて珍しいですからねえ。絣
が興味持つのも当然かな?」
「興味?」
「な、成羽!」

 絣が成羽を咎める。しかし成羽は、絣の声など聞こえないかのように話を続ける。
 
「そうですよ。絣って、他人の事なんて滅多な事じゃ話しませんから。……でもこうして
みると、やっぱ普通の人だよなー……」

 腕組みをして、成羽は首を傾げる。
 
「成羽ってば!」
「ありゃ?いたの?絣」
「もう。どうしてそう誤解されるような言い方するの?すいません川本さん。成羽ってい
つもこうで……」

 絣が成羽を押し退けて前に出た。そしてぺこりと頭を下げる。それに対して成羽が声を
あげた。

「あ!いつもって、ヒドいぞ絣!それって偏見!」
「偏見って……そうじゃない」
「違う!」
「そうだよ!」
「まあまあ。とにかく、絣ちゃんが俺のこと話したから、君が見に来たって事だろ?」

 二人が口喧嘩を始めたので、結城はその間に割って入った。
 
「んー、ま、そうですね」

絣を睨みながら成羽は言う。その絣は、視線を下に落とした。

「あの、川本さん……」
「ん?」

 絣は上目遣いで結城を見た。心なしか頬が赤い。
 
「その……絣ちゃんは、ちょっと……」

 ぼそぼそ絣は呟く。赤い頬が一層紅くなった。
 
「あーそれそれ。初対面でちゃん付けされたって、絣困ってましたよ」

 絣の言葉に、成羽が付け加える。
 
「別にいいだろ?可愛いじゃないか」
「そ、そんな……!私、別に……!」
 絣は再び俯いてもごもごと何か言ってい
 る。どうも、ちゃん付けは恥ずかしいらしい。
 
「まあ確かに、いきなりちゃん付けは、少なくとも絣には刺激が強いですよ。あたしみた
いに、本当に可愛いなら別だけど!」

 成羽は自信たっぷりにポーズを決めた。しかし二人に反応はない。
(確かにそうだけどさ、自分で言うと白けるだろ……)
 結城がそう目を逸らしたのが気に入らなかったのか、成羽は少しむくれた顔をした。
 
「時に川本さん」
「何だ?」
「何でまた三好に?観光って訳じゃないでしょ?」

 成羽は首を傾げて尋ねる。結城はああ、と声をあげた。
 
「なんでだろうな。強いて言えばなんとなくなんだけど。一昨日急に部長から一ヶ月仕事
休んでいいなんて言われちまって。どうしようか迷ったまま電車乗って、それでここで降
りたんだ。」

 結城はこれまでの単純すぎるあらましを説明した。
 
「はあ、社会人なんですね。何のお仕事ですか?」
「新聞記者。主に民事を追っかけてる。」
「新聞、記者……?」

 瞬間、成羽の顔が曇った。どこか警戒しているような表情だった。
 
「どうした?」
「どうしたの?成羽」

(その4に続く)


その2へ戻るHOMEへ戻る