小  説

22-桜庭のまどろみ

「1日だけお休みをあげるから、ゆっくり休んできなさい」

 鬼のメイド長、十六夜咲夜が発したとは思えぬセリフが事の発端だった。
 先日の幻想郷春度強奪事件。それを解決したのは紅魔館唯一の人間だった。5月まで続
いていた冬は、冥界から春が流出したことによって一気に世界の彼方まで押しやられ、代
わりに頭が狂うくらいぽかぽかの春が幻想郷を包み込んだ。
 何ヶ月も続いていた冬が終わり慌ててやってきた春に、全ての生命は慌ててそれを迎え
入れる準備を始めたのだった。草は芽吹き、桜が咲き乱れ、色づく世界の中大小さまざま
な動物たちが我先にと暖かい光の中へ飛び出してきた。
 人間や妖怪とて例外ではない。とりわけ知能を持つ者たちは、そのうららかな春を心か
ら喜んだ。仕事も争いも全て忘れて、今はこの陽気に包まれていたいと思った。
 紅魔館で働くメイドたちも、1度でいいから盛大に花見がしたいと署名活動までしてメ
イド長に直訴した。しかしそこはそれ鬼のメイド長兼悪魔の犬十六夜咲夜。1秒足らずで
却下されたのは言うまでもない。だが、咲夜とて人の子である。どこもかしこも春一色の
中で花見をしない者などいるだろうかと反語が浮かんだのも当然だった。メイドたちの気
持ちは十分に理解できた。
 かといって、1日といえど広い紅魔館での仕事を全員がほったらかしにするわけにもい
かない。したがって咲夜は、少人数で交代制による花見という条件をつけた上でメイドた
ちの要請を受け入れた。
 それから数日後、この日の休みをもらったのは美鈴と小悪魔他20名強である。メンバ
ーは持ち場ごとに決められているのではなく、希望日の先着順で決められていた。美鈴と
小悪魔が同日になったのはただの偶然である。
 しかし、小悪魔のほうはあまり乗り気ではなかった。図書館の掃除は1日放っておいた
だけでもすぐに埃が積もってしまうし、何よりパチュリーと参加したかったのだ。希望日
は自分で書いたものの、できることなら主と行きたかった。

「……と。こんなとこかな」

 しかし、せっかく花見ができるというのにやらない理由はない。いつもより少々早起き
し、小悪魔は花見用の弁当を作っていた。隣では美鈴も同じ行動を取っている。その量が
小悪魔の20倍以上はあるあたり、どれだけ花見に気合を入れているかがよくわかる。何
しろ、特注品である馬鹿でかい5段重箱を4つも出しているのだ。小悪魔の聞いたところ
によると、これに加えて酒樽を丸ごと持っていく気らしかった。どうやって持っていくつ
もりなのだろうか。

 日が昇るか昇らないかという頃に、本日の花見部隊は門のところに集まっていた。早朝
の冷え込みも今はだいぶ緩和されていた。そんな中、誰ともなしにとった点呼で欠員なし
というのはある意味で呆れたものである。メイドたちはそれぞれに弁当と酒を持って紅魔
館から飛び立っていった。その時点で既に欠員が2名出ていることにも気づかずに。

「……なんで隊長も残ったんですか?」

 小悪魔は自分の隣に残った美鈴に問いかけた。美鈴は酒樽に腰掛けて空を行くメイドた
ちを見送っていた。ちなみに重箱は2つに減っている。

「そのセリフ、そっくりそのまま返すわね」

 小悪魔のほうを見ずに美鈴はそう答えた。小悪魔は隊長ではないが、この際それはどう
でもいい。美鈴の言葉に、小悪魔は少しの間考え込んだ。
 特にどうというわけではない。なんとなく、大所帯で騒ぐ気になれなかったのだ。冬の
間は誰でも寡黙になりがちである。低い気温が、立ち止まっておしゃべりすることを許さ
なかったのだ。春になり、口も動き出す。そんなときは外に出て宴会に限る。冬にたまっ
た鬱憤を一気に吐き出しておつりまで手に入れてしまうという魂胆だ。
 だが、それははたして花見といえるのだろうか。1度酒の回った花見の連中は、少しで
も桜を見ているのだろうか。
 小悪魔はそうは思わない。たとえ1人で酒を飲むことになっても、桜をゆっくりと存分
に見ることができる。年寄り臭いのかもしれないが、小悪魔はそういった和やかな雰囲気
を選びたかった。

「……じゃ、そのセリフもそのまま返すわね」

 小悪魔が自分の心情を端的に説明すると、美鈴はようやく小悪魔のほうを向いて答えた。
他人と違うことを言っているのが照れくさいのか、少しだけはにかんでいた。

「咲夜さんはお休みって言ってたもの。それは決して大騒ぎをすることじゃないと思うの。
ゆっくり、お風呂に入るみたいにリラックスしてくればいいのよ」

 2人は普段から身体的にしんどい仕事をしている。小悪魔は毎日広い図書館の本を全て
カバーしなくてはならないし、美鈴も魔理沙が入館許可をもらうまでは心身ともにボロボ
ロにされていた。それでなくとも、それなりに力を持った妖怪に部下が撃墜されることも
ある。隊を預かる者として、美鈴は毎日大勢に心配りをしているはずだ。
 全ての束縛から解放されて、ぬるま湯のような安らぎにどっぷりと浸かる。それすなわ
ち命の洗濯。2人が求めていたのは、まさにそれだった。
 美鈴の言葉を十二分に理解して、小悪魔はうなずいた。
 
「じゃ、隊長行きましょうか。なるべく人がいないところに」
「ん、そうね」

 互いに通じるものを感じて、微笑んで2人は朝焼けの中へと飛び立っていった。






 しかしすぐに気づいたのだが、今や幻想郷には2人の探しているような花見の穴場など
なかった。どこへいっても場所取りが終わっており、下手に押しのけようものなら弾幕ご
っこだ。せっかく休みにきたというのにそんなことはしたくない。桜の根元に誰かがいる
のを見つけると、仕方なく小悪魔と美鈴はそこを離れるのだった。

「なかなか見つかりませんね〜」
「う〜ん、ちょっと予想外だったなあ」

 ふわふわと空中を漂いながら、2人は会話する。先に出て行ったメイドたちは、おそら
くもう始めていることだろう。美鈴の特大重箱の半分は彼女らにあげたらしい。上司とし
ての部下への労いだそうだ。しかし、他人を労っていても肝心の自分たちが花見をできな
いのでは本末転倒だ。しかも荷物が重い。美鈴の作った巨大重箱が仇となっている。1つ
だけ小悪魔が持つことにしていたが、これをぶら下げたまま飛び続けると肩が痛くなって
くる。かといって今更引き返すこともできない。腹をくくって、小悪魔と美鈴はさらに足
を伸ばしてみることにした。
 今頃はこうしていただろうとか、そろそろパチュリーが起きる時間だとか話し、何とか
して捜索時間中の暇潰しを図るが、1時間以上飛んでいてもいい場所が見つからないとな
ると、流石に2人とも嫌になってきていた。だんだんと無口になっていく。眼下に広がる
緑の世界の中に桜色の地点を探すが、大抵そこには何者かの気配があり、またそれがなく
とも、何かしらの物が置いてあるのだった。その度に出るのは、小悪魔のため息と美鈴の
唸り声であった。
 さらに数十分の飛行を続ける。すると、2人の前に1つの人影が現れた。緑色の髪に黄
色いリボンをつけ、サイドポニーという一風変わったヘアスタイルをしていた。はっきり
と見定めないことにはよくわからないが、おそらくは妖精だろう。その手からは、バスケ
ットらしき物がぶら下がっていた。

「あの娘も花見かな?」
「そうかもしれないですね。ちょっと訊いてみましょうか?」

 1人で花見をするというのであれば、その理由は小悪魔たちと同じなはずである。もし
かしたら穴場を知っているかもしれない。探すことに疲れていた2人は、一縷の望みを彼
女に託してみることにした。おかしいと思ったら人に訊く。知らないことも人に訊く。小
悪魔と美鈴は妖精の少女に近づいた。

「すいませーん!」

 小悪魔が少女に声をかける。そのときになって2人は、彼女が他の妖精よりもある程度
力を持っている大妖精であることに気づいた。
 大妖精の少女は2人に気づき、その場で立ち止まった。澄んだ声の返事が耳に届く。
 
「あのう、もしかして、これからお花見ですか?」
「あ、はい。そのつもりですけど……」

 小悪魔の質問に、大妖精は肯定の返事をよこす。後ろにいた美鈴が小さくガッツポーズ
をしてから前に出てきた。

「それじゃあさ、どこか穴場知らない?1人で行くってことは、人がいないところにする
つもりなんでしょ?」

 或いは既に集まっているところに行くのかもしれなかったが、2人の疲れた脳はそこま
で考えてくれなかった。そうだよね、そう言いなさい、と言わんばかりのギラギラした目
に、大妖精は少々たじろいでいるようだった。その目に映っているのは、勢いだけでやっ
てきて、場合によっては乗っ取りを企む迷惑千万な2人だった。

「大丈夫ですよ。私たちも騒ぐつもりはありませんから。静かに桜を見たい派です」

 大妖精が黙っているので、小悪魔が言葉を加える。肩透かしを食うことなど微塵も疑っ
ていない。というよりも、無意識にそうなることを考えないようにしていた。
 大妖精はそれでもしばらく黙っていたが、やがてこくりとうなずいた。2人の言葉を信
じたのか、それとも逃げても捕まると思ったからなのか、とにかく大妖精は2人の参加を
承諾してくれたようだった。

「やった!」
「ありがとうございます!」

 改めて美鈴のガッツポーズが炸裂する。3人は互いに名乗りあってから、大妖精の知る
花見の穴場へと向かうことになった。
 そこは小高い丘の上にあるらしい。その近辺にも妖怪はたくさんいるが、花見をするよ
うな連中はいない。故に場合によっては襲われたりもするが、そのために誰もそこにある
桜を見には行かないらしい。桜の木自体が少ないのも理由に挙がる。妖怪の密集地帯から
は多少の距離もあるし、桜は丘の上に生えているので逃げやすい好条件に気づいたのは大
妖精ということだった。
「それにしても、湖の近くに住んでいるのなら桜なんていくらでも生えてるでしょ?」
 そこへ行く途中で、ふと美鈴が質問する。紅魔館館外警備隊として、美鈴は館周辺の地
理については詳しかった。実際、湖のほとりも含めてそのあたりには東西南北のどこにで
も桜のコロニーがある。わざわざ危険がある場所へ移動する必要などないはずだった。
 美鈴の質問に大妖精はその通りですと答えた。しかし、すぐにうんざりした表情になる。
 
「そうなんですが、ここ最近紅魔館のメイドさんたちが大挙して家の周りで宴会繰り広げ
てるんですよ。毎日毎日夜通しで。よく飽きませんよね」
「うっ……」

 小悪魔と美鈴は言葉に詰まった。大妖精の何気ない皮肉がぐっさりと心に刺さった。ま
さか元凶が身内にいようとは。紅魔館のメイドたちは署名活動の時点で既に広範囲に渡っ
て場所取りをしていたのだ。部隊編成されているだけにどこも負けなしで花見の場所「奪
り」に成功したという。そのおかげで出る迷惑は、確かに誰も考えていなかった。片付け
はするものの、見張りが何人か残るから手出しもできないらしい。
 あまりに申し訳なくて、2人はその場で頭を下げた。今日帰ったらその辺りの事情を説
明しなくてはならないだろう。
 大妖精は、もうしばらくすれば全員の花見が終わる事を聞いて安心したようだった。別
にいさかいもないので我慢するという。

「妹もお世話になってますしね」

 くすくすと大妖精は笑った。
 大妖精には妹がいるということだった。その妹は冬に親友ができたのだが、春になって
別れなければならなかったらしい。冬がいつもより長く、そして春が唐突にやってきたせ
いで、親友とろくに挨拶もできずに別れてしまったのだ。それから妹はずっとふさぎこん
でいる。

「けど、近くであれだけ騒いでくれているからどうしても興味を持たざるをえなくって。
紅魔館の人たちはあの子も混ぜてくれたんです」

 一時的だろうけど、妹には笑顔が戻った。少しの間でもその悲しみを忘れさせてくれて
いることが嬉しかった。憂いを含んだ笑顔で大妖精は2人に礼を言った。あとは自分と妹
次第だと自覚しているようだった。

 互いに照れくさい会話をしていると、やがて小さな桜色が目に入ってきた。大妖精の言
った穴場に到着したらしい。丘の上に生えているため平地からは多少遠く見える。3人は
桜の木へ向かって降下した。
 改めてそこを見てみると、確かに小さな場所だった。満開といえど、桜の木はわずか3
本しか生えていない。まるで箱庭だ。ただし、1本1本の幹は太く、枝も横に広がってい
る。それが正三角形を描いているため互いに枝が交錯していた。恐らくは、真上から見る
と巨大な1本の桜に見えることだろう。

「いいところね」

 少人数に適したスポットなので、静かに花見をするにはうってつけだった。美鈴が酒樽
を置きながら桜を見上げる。

「考えてみれば、1本でも桜があればお花見は出来ますよね」

 わざわざ桜が大量に生えているところを占拠せずとも、桜はただそこにあれば花見をす
る分には困らないのだ。苦笑して小悪魔が言葉をつむぐ。そして、ここに案内してくれた
大妖精に改めて礼を言った。

「さ、それじゃ始めよう……?」

 3人は桜が立つ間、正三角形の中へと足を踏み入れた。しかし、その先頭に立つ美鈴が、
酒樽を担いだまま立ち止まる。

「隊長?どうしたんですか?」
「しーっ……」

 両手がふさがっているために口に指は持っていけないが、声だけで美鈴は静かにするよ
う指示した。
 美鈴は足音を立てないようにゆっくりとその場から移動した。そして、1本の木の前に
そっと荷物を置く。小悪魔と大妖精は、それを不思議に思いながら後に続いた。
 だが2人とも、美鈴がそうした理由をすぐに理解した。それを知るや、2人とも美鈴と
同じように音を立てず、三角形の隅に荷物を降ろした。

「先客が……いたんですか」

 大妖精が呟いた。
 3人の見つめる先には、1人の少女がいた。桜の木の根元ですうすうと寝息をたててい
る。だいぶ前からそうしていたらしく、白い服に桜の花びらがたくさん乗っていた。ちょ
っと見た限りでは桜色のまだら模様にも見える。胸の上に置いてある、服と同じ赤い線の
入った三角帽の返しにも大量の花びらが入ってしまっている。

「どうしましょう……」

 静かに花見をするつもりの3人だったが、先に来ていた者がこれだけ気持ちよさそうに
寝ているとなんだか悪い気がする。しかしもう他の場所を探す余力もなかった。なるべく
静かにして始めようということになった。3本ある木のうちの2本に陣取り、3人はそれ
ぞれの弁当を開けた。小悪魔も大妖精も自分1人で花見をするつもりだったので弁当も少
量だが、美鈴の持ってきた重箱の中身は文字通り色んな単位で桁違いだった。美鈴も1人
で花見をするつもりだったのだろうが、1セットにつき5、6人前はありそうな料理をど
うやって消化するつもりでいたのだろうか。美鈴はかなりの大食漢だし、花見の席ともな
れば食は進むものだが、それにしても量が多かった。中身はとてもおいしそうだったが、
全てを食べきる気にはどうしてもなれなかった。

「……あの人が起きたらおすそ分けしましょうか」
「そうね」

 小悪魔の提案に美鈴はうなずいた。本人曰くちょっと気合を入れすぎたとのことだが、
一般的に見れば気合が入っているなどといった生易しいものではないように思える。大妖
精も承諾し、花の下で眠る少女を少し見やってから、3人は小さな花見を開始した。
 騒ぐことだけが花見ではない。風にそよぎ、花びらとその柔らかい匂いを乗せる桜を眺
める。時として服に、髪に落ちてくる桜色を取りのける。穏やかな日差しを浴びて、おい
しいお弁当を少しずつつまんでいく。杯に入った桜を飲むのもまた一興。その場に居合わ
せた他人も今は花見の友。それぞれの日常を語らいながら時を過ごす。小さな宴に宿る小
さな楽しみは、3人に笑顔だけを与え続けた。

「んぅ……?」
「あ」

 酒が少しずつ回り始めた頃、3人の後ろで眠っていた少女が起き上がった。寝起きでは
っきりしない眼差しで、いつの間にかやってきていた妖怪たちを見つめる。

「おはようございます」
「おはよ〜」
「おはようございます〜」

 3人はその少女にめいめい挨拶をした。まだ状況が分かっていないのか、少女に反応は
なかった。しかもまだ眠いらしく、1度かくんと首が縦に落ちる。

「……はっ!」

 その反動で、ようやく目が覚めたようだ。少女は急いで辺りを見回し、次いで3人を凝
視する。それから立ち上がって桜の花びらを払い落とし、手に持っていた帽子をかぶろう
とする。そこで返しに入っていた花びらに気づき、ひっくり返して落としていくが、その
帽子の中に桜が一片入り込んだせいでまた返さなければならなかった。しかしその一片が
また頑固に落ちてこず、少女はいらだちながらそれを掻き出そうと帽子と格闘する。なか
なか本題に入れなかったが、ようやく花びらがはらりと落ちたのを確認して、少女は満足
そうに帽子をかぶった。頭の上に結構な量の花びらが乗っていたのだが、それには気づか
なかった。

「おはようございます!」

 そこまで引っ張っておいて何を言うのかと思えば、少女は勢いよくおじぎをして挨拶を
返しただけだった。そのせいでせっかくかぶった帽子が地面に落ちてしまい、追い討ちと
ばかりに頭に乗っていた桜が中に侵入する。律儀といえばそうなのだが、言っていること
とやっていることは少しズレている気がした。
 色んな意味で抜けている。それが少女に対する3人の第一印象だった。
 
「春ですよ〜。春が来たんですよ〜!」

 帽子を拾いなおして、少女はぱたぱたと3人のところに駆け寄る。しかしその発言はど
うにもリアクションに困るものだった。

「ええ、そうですね」
「春一色よね」

 小悪魔と美鈴が曖昧に返す。少女は嬉しそうにうなずいた。
 
「今年の冬は本当に長かったですもんね」
「ええ。春度を奪っていた人がいたようで……」
「春なんですよ〜」

 3人は少女を花見に誘った。少女のほうも空腹であったためすぐに了承した。少女は桜
の花を眺めていたらいつの間にか寝てしまっていたとのことだった。この陽気だ。そうな
ってもおかしくはない。リリーホワイトは美鈴の料理を口に運びながらも、春から目を逸
らすことをやめなかった。
 春を運ぶ妖精であるリリーホワイトは、本来ならばまだ春の訪れていない地に春を伝え
に行っているはずである。しかし異常に長かった冬が終わりを告げ、しかも異常な春っぷ
りが一気に幻想郷全土を覆ってしまったため、わざわざ北へ行く必要がなくなってしまっ
たのだ。これから自分がどうするかは分からない。そもそも、幻想郷全体に春を伝え終え
た妖精がその後どうなるか知らなかった。今年に現れたリリーは自分の運命を知らなかっ
た。
 けれど、リリーはそんなことで落胆してはいないようだった。第一、そんなことは考え
た事もないそうだ。
 春になってすることがなくなったのなら、ただ春の中にいるだけでいい。春を伝えるだ
けではなく、自分自身も春そのものに春を伝えられたかった。
 そのつもりでたまたま見つけた桜の箱庭でのんびりとしていた。そして今に至る。
 
「春を運ぶ妖精だけど、春の中にいたいですからね」

 にこっと笑って、リリーは再び食べ始めた。

 外での食事は、大抵において大人数のほうが楽しいものである。大食らいに加えてうわ
ばみでもある美鈴は、他3人の倍くらいのスピードで食べ、そして飲んでいく。もともと
の量が相当なものだからそう簡単には減らないが、見ているほうの食欲が衰退しそうな勢
いなのは事実である。
 だがその美鈴の勢いにも食らいついているかもしれないのがリリーだった。春になった
のが嬉しくて食べる事も忘れていたそうだ。花見だというのにわき目も振らず美鈴の料理
をぱくついていた。

「……ん!?このエビチリ、唐辛子使ってるんですか?」
「あ、分かる?見た目は変わらないんだけどね、ちょっと凝った作り方してるのよ」

 なぜか美鈴とリリーは料理談義を始めてしまった。食事などほとんどとらないはずなの
に、どういうわけかリリーは味の違いに鋭いようだった。わやわやと会話に花が咲く。割
に盛り上がっているようなので、小悪魔は大妖精と話すことにした。大妖精は酒に強いわ
けではないようで、一口飲んだら顔を真っ赤にしていた。たちの悪い酔っ払いのようにフ
ラフラになっている。

「チルノはもうホントに負けず嫌いで。だからちょっとからかってみるとすぐに怒るんで
すよね〜。だけどもうその時点でいっぱいいっぱいなのが丸分かりで……」

 親戚のおばさんのような口調で大妖精は語っていく。小悪魔のほうは相槌を打つことし
かできなかった。自身の苦労人の性分が抜けきることはないだろう。
 中途半端な盛り上がりを見せる小悪魔たちに対し、美鈴とリリーはやたらとヒートアッ
プしていた。春が旬の山菜は時期を見極めないと味にとんでもない差が出るとか、桜餅は
桜の花びらと一緒に食べるべきだとか、見ている分には面白い内容だと思った。

「それにしても……あったかいですよね」

 2人の様子を見ていた小悪魔は、酒を注ぎながら空を見上げた。桜の間から青空が覗い
ている。薄い花の色とは対照的にそれはくっきりと映し出され、また時として雲の白に変
わり、桜花に溶け込みもした。吹く風が空を隠し、現し、桜の模様を撒き散らしていく。
暖色の花びらは暖かい風に乗せられ、行く当てもないまま幻想郷をさまようのだろう。
 全ての事象は生き物に当てはめることが出来る。何かの本で読んだ記憶があった。それ
は桜もまた然り。風に流され、どこへ行くかも分からぬままどこかへとたどり着く。それ
までには様々な過程を経験し、その全てを忘れて今に生きて、その後もまた、どこかの時
間と空間に流されていく。
 風という運命に流される人生。もしも桜に意思があるのなら、きっと自分たちのように
苦労を感じたりするのだろう。強風にあおられたり、そよ風に撫でられたり。暖かい風だ
ったり、冷たい風だったり。
 そして今は、この丘の上のように、小さな風の澱みの中にいるのだろう。
 そこは、ほんの少しだけ運命に逆らった、ちっぽけな幸せの場所だった。
 酒を注ぎ足しつつ、小悪魔は桜色の聖域にいられることを嬉しく思うのだった。

桜色の聖域





 穏やかな時が流れてゆく。









 門番という、紅魔館において最も殺伐とした仕事を受け持つ美鈴。警備という仕事柄、
常に敵意あるものの存在に注意しなければならない。普段そんな者はいないからいいが、
かといってのん気に構えていてもいいものでもない。紅魔館に勤め始めて幾星霜。倒した
敵の数など覚えられないほどに敵はいた。嫌われ者の悪魔を追い払おうとやってくる妖怪
も、人間も、そういった連中は全て排除してきた。紅魔館屈指の実力者紅美鈴に、「敗北」
の2文字は存在しなかった。だからこそ去年の夏に霊夢、そして魔理沙に撃墜されたとき
のショックは今でも残っていた。咲夜に遊ばれているときとは全く違う辛さ。体についた
傷よりも、心についた傷に何度も苦しんだものだった。




 気を配るという点では、小悪魔も美鈴と大差ない。病弱で喘息持ちの主パチュリーの健
康に気遣っていなければならかった。もちろん心身ともにだ。パチュリーは子供ではない
からわがままを言うことはないが、だから多少は融通が利かなくても仕方がない、という
のは従者として失格だ。何よりもまず主を最優先する。その上で本来の仕事もこなす。完
全で瀟洒な従者、十六夜咲夜の姿は、小悪魔を含めて紅魔館全てのメイドたちの憧れであ
ると同時に、最高の目標でもあるのだ。
 だがそのためにストレスが溜まる事も多々あった。広すぎる図書館をその一手に担い、
妥協の許されない管理を求められる。毎日毎日埃や魔道書と戦い続けてきた。
 そして、魔理沙という存在。パチュリーと簡単に友達になってしまった人間の行動。そ
れは、従者という立場にこだわってしまった小悪魔の失敗だった。自分の出来なかったこ
とがもどかしくて、魔理沙を妬ましいと思った事もあった。その気持ちが嫌でたまらなく
て、何よりも悔しかった。




 春が来ることはいつだって喜ばしいことだった。空気が暖かくなり、外出しやすくなる。
新しく始まった季節は躍動感にあふれていた。きっと、自分たちもそのエネルギーを分け
てもらっていたのだろう。
 だから、かつてこれほどまでに冬の終わりを残念に思ったことはなかった。チルノがふ
さぎこんでしまうところなど見たことがなかった。先日の冬に出来たチルノの親友、レテ
ィ・ホワイトロック。姉である自分と同じようにチルノに接し、そして自分以上にチルノ
にかまってくれていた。大妖精がレティのように振る舞えなかったのは、ひとえに力がな
かったからだった。冬の妖怪として、チルノよりもはるかに強大な力を持っていたレティ。
遊び半分で弾幕ごっこを始めてもレティは平気だった。チルノがそれに熱中しても余裕を
持って応じることが出来た。その状態のチルノの力を受け止め、流せる能力は大妖精には
なかった。チルノが氷精として成長してからは、何かと苦労することがあった。その意味
でレティは、チルノにとって最高の相方だったのだ。
 レティを失った悲しみを、大妖精は癒すことが出来なかった。今だって出来ていない。
冬になればまた会えるというレティの言葉を信じるだけで、妹を慰める事も出来なかった。
力がないから下手に口先だけうまくなって、結局家族を助けることが出来ない。きっと、
死ぬまでこの自己嫌悪は自分にまとわりつくのだろうと思った。




 春を伝える妖精がどこへ行くのかは知らない。春が幻想郷を覆ってしまった今、悲しい
ことにリリーの存在意義というものはない。もう誰もが、今は春であることを知ってしま
っているのだから。終わりと始まりの境界に現れ、そこを過ぎれば消えなければならない。
境界と境界の「間」にいるレティよりもはるかに短い存在なのだ。現れた過程も分からず、
消える過程も分からず、この世に生を受けた理由だけしか知らない。何故生まれたか分か
らないよりも、生まれた理由が分かっているほうが悲しかった。最初から己の生き方を決
められ、生き物としての可能性を削られ、それに疑念を抱く事もなく、冬と春の間ほんの
一瞬に現れ、そして消える。リリー自身は自分の行く末を知らないものの、春を運ぶ妖精
としてそれはなんとなく感じていた。
 春は大好き。だから伝えたい。例え最初から最後まで決められている生でも、リリーは
それを全うしたかった。決められているからこそ、全力を出したかった。長い永い冬を越
え、厚くたちこめる雲を越え、やっと見つけた春のかけら。ようやく手に入れることの出
来た、言葉では絶対に伝え切れない想い。だから自分の力に乗せて伝えたかった。全気力
を振り絞れば、想いも強くなるはずだから。
 けれど結果はあまりにも無残で、どうしようもなく泣き出しそうで。
 それでも伝えたかったから。必死になって空を飛んで、そして気がつけば、あっという
間に桜が咲いていたのだった。だから、春を告げる「リリーホワイト」は終わりを告げな
ければならない。嫌な言い方だが、幻想郷にとってリリーは既に用済みなのだ。また来年
の春には新しいリリーホワイトに活躍してもらうだけである。
 自分が満足する前に春はやってきてしまった。春は好きだけれど、胸に何かが残ってし
まった。
 それは虚しさ。言いようのないわだかまりがリリーの心を支配していた。吹雪の中春を
探し回り、天空で痛み傷つき、それでもなお飛んだというのに、報われなかった。
 このまま、何の達成感もなく消えなければならないのだろうか。言葉にならない不安が、
リリーを包み込んでいた。







 太陽は南中を過ぎ、丸い坂道へ足を踏み入れていた。4人の宴会はとっくに過ぎ去って
いた。食料も酒もほとんどなくなり、お腹いっぱいになったところで暖かな風。終わりへ
と収束していった宴は、いつしかお昼寝タイムへと移行していた。木の幹にもたれかかる
美鈴のももを枕にリリーが眠る。先ほどまで思い切り寝ていたことなど関係ない。大妖精
も2人に寄り添うようにして寝息を立てていた。酒はちっとも抜けておらず、頬は上気
したまま。寝言で何か言っていたが、聞き取ることはできなかった。
 小悪魔は1人だけ起きて3人を見つめていた。先ほどまでは眠っていたのだが、ふと目
が覚めてしまい、散歩でもしようと思っていたのだ。
 危険な妖怪が近くに住み着いているというのに、この3人は全く警戒していない。この
陽気ならどんな妖怪でも何かを襲う気になどなれそうもないが。小悪魔は苦笑して翼を広
げた。ざっと空気に音をたて、桜の木の上へと飛んでゆく。三角を作る桜の頂点に立ち、
小悪魔は周囲を眺めてみた。
 幻想郷は呆れるほどの春だった。木の葉と花に飾られ、どこもかしこもみずみずしい
精力を見せつけている。溜まっていたものが一気に吹き出た結果なのだろう。
 この世界に、いつまでもいたい。小悪魔は心にそう思った。
 この幸せな時空にとどまることができたのなら、それはどれだけ幸せなのだろうか。な
んのしがらみもなく喜びだけを感じていられるのなら。そうすれば、心の傷跡など消え去
ってしまうのに。
 今を生き行くこの世界は鮮やかに彩られ、永遠にも感じられたあの冬の面影を一瞬にし
て流し捨ててしまった。それを、理性ある者だけがしつこく覚えている。今の世界はこう
も暖かで、優しいというのに。なぜ負をいつまでも未練たらしく覚えていなければならな
いのか。そんなもの、この世界の隅にでも捨ててしまいたかった。春の暖かさに誘われて、
全て忘れてしまいたかった。



 だけど――。



「……何もかも忘れちゃったら、それは悲しすぎるよね」

 眠りから覚めて、完全に起き出すまでの惰眠はとても心地よい。できるならばそれをい
つまでも感じていたいものだ。だが、それを続けるわけにもいかない。いつかは起きない
と餓死するからとかそういう問題ではない。起きなかったら、永久に独りになるからだ。
この世界に残した喜びも、悲しみも、そして大切な人たちも、全て突き放さなければなら
ない。「堕落」という名の幸せは、それらを投げうってまで手に入れたいものなのだろう
か。自分や他人の足跡があるから、そこに何かを探してゆけるのに。本当に求めているも
のを探してゆけるのに。
 訪れた春は幸せを与え、同時に幸せを奪っていくような気がした。
 だからかもしれない。春が一瞬で過ぎ去っていくのは。
 この世界にある、「日常」という名の幸せを気づかせるために。
 春の幸せは、このまどろみと同じ。目が覚めてから起きるまでの幸せ。そして起きたら、
 生き物はそれよりもさらにちっぽけな幸せを探しに行くのだ。「日常」という普遍的過
ぎる世界の中へ。
 小悪魔は木から飛び立ち、下へと降りていった。3人は相変わらずマグロで団子になっ
ている。起きる様子は一向になかった。けれど、わざわざ起こすなどという野暮なことは
しない。今は、休暇で来ているのだから。たとえこれが堕落だったとしても、だからそれ
に身を委ねたかった。それは一時の快楽。休暇もまた一時でしかない。だから今満喫して
おきたいのだ。明日になればまた疲れる日常が待っている。風に流される運命は、澱みに
とどまることを許さない。風は、必ずまた吹く。だったら、今だけこうして眠ってもいい
だろう。時に走って、時に立ち止まる。生き物は、きっとそうして生きていくのだから。
春はその象徴なのだから。眠りすぎはいけないけれど、眠らないと何も出来なくなる。

 春は眠ろう。そして、また明日から歩き出そう。

 眠くなることを見越して小悪魔は毛布を持ってきていた。今かけるには少々気温が高い
が、日が傾いてからでは遅い。荷物から毛布を取り出すと、3人に渡してかけた。サイズ
の大きいものを持ってきたので、3人にかけてもまだスペースが余る。ならば、自分が入
ろう。今起きたばかりだけれど、それはそれ。春眠暁を覚えず。小悪魔は3人に寄り添っ
て毛布にもぐりこんだ。
 箱庭の桜の中、4人の少女が眠る。一時でも、心にあるその負い目を忘れるために。


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