小  説

26-思い出との邂逅

 桜も次々と散ってゆくここは冥界白玉楼。春度を限界以上に上げていたせいで、幻想郷
全土に春度が戻されてからは冥界の桜は廃れていくばかりだった。といっても、単に花が
散っていくだけであって、桜の木は今やほとんどが立派な葉桜になっているのだが。
 だというのに、わずかに残った花を見つけては白玉楼のお嬢様が花見だなんだと言って
酒を持ち出していく。その度に苦労するのは庭師なのである。再三注意しても幽々子はち
っとも聞き入れない。もうプリズムリバーたち呼んじゃったもんねー、と笑顔を1つ。後
に引き返せない状況に持ってこられると、最終的に妖夢はみょんとしか言えなくなってし
まうのである。








「ふう……」

 騒霊三姉妹長女、ルナサ・プリズムリバーはひとしきりの演奏を終え、宴の席から少し
離れてその様子を見ていた。主催者である幽々子と我が妹が酒の飲み比べをしている。メ
ルランは確かに3人の中でも1番酒に強いが、しかし相手があの幽々子となるとなんとも
不利な戦いだった。だが2人とも楽しんでいるようなのでよしとする。ルナサは一升瓶と
コップを引き寄せて1人で飲むことにした。ちなみに、三女は既に主犯に敗退している。
幽々子のお付人がその介抱にいそしんでいた。
 しばらくちびちびと酒をすすっていたルナサだったが、幽々子が妖夢に酒樽持ってきてー、
と言ったのを聞いて一旦この場から離れることにした。お題が酒樽まで膨れ上がれば、か
なり高い確率でメルランも敗退すると思われる。となれば幽々子が次に目をつけるのは当
然自分だろう。ルナサは決して酒に強くはない。自分まで泥酔してしまっては帰るに帰れ
なくなってしまう。そうなれば白玉楼に泊まることになるのだろうが、そのときはそのと
きで幽々子が夜通しで宴会をするに決まっている。そして、明日ひどい二日酔いで家路に
つくことになるのだ。
 妖夢が酒樽を取りに行っている間に、ルナサはそっと木の陰に隠れて空へと飛び上がっ
た。メルランがつぶれたら今度の相手は妖夢になるのだろう。心の中で謝っておいて、ル
ナサは白玉楼を離れた。
 少し冥界を散歩でもしよう。ルナサは一升瓶を片手にふらふらと空を漂った。
 
「……ん?」

 ふと、ルナサは眼下の木々に視線を向けた。そこだけ少し森が途切れ、地面があらわに
なっている。そこに、小さな池があった。
 ルナサは池のそばに降りた。池というよりは水たまりのようなものだった。きちんと手
入れがされているわけでもなく、たまたまできたといった感じだろう。よく見れば底がし
っかり透けている。ただ広いだけで深さもない、本当に何の変哲もない水たまりだったら
しい。
 しかしその風景は、プリズムリバー家の庭にどことなく似ている気がした。掃除の終わ
った芝生の上に散った花びらがところどころに敷かれ、アトランダムに植えられた花壇の
ようだった。ルナサは近くの木の根元に腰を下ろした。一升瓶から酒を注ぎ、目の前の風
景を眺めながら飲むことにした。



「……誰?」

 時々水たまりに桜の花びらが落ちて水面に波紋が立つ。それを見ながらルナサは相も変
わらずちびちびと酒を飲んでいた。その途中、不意に誰かがそばに立つ気配を感じた。敵
意がないことは分かっているので、木の幹から頭を離し、ルナサはそちらのほうを向いた。
 
「あ、お邪魔だったかしら……?」
「え……?」

 そこにいたのは1人の老婆。白髪を頭の上で結わえ、青い簡素なドレスを着ている。体
は痩せほそって今にも折れてしまいそうだが、背筋はしゃんと伸びている。どことなく貴
族のような雰囲気を漂わせていた。老婆は笑顔をたたえてルナサを見つめていた。
 普段ルナサは滅多なことでは驚かない。たとえ今出てきたのが妖夢の半幽霊で、それが
いきなり喋り出したとしても。いつの間にかやってきた幽々子であっても。以前にあった
人間たちが実は死にましたと言って現れたとしても、ルナサの表情はそうは変わらない。
 しかし、自分の前に立った老婆を見て、ルナサは文字通り驚きの表情を隠せなかった。
目は大きく見開き、老婆を捕らえて離さない。今、自分の前にその霊がいることが信じら
れなかった。

 あまりの驚きに口はぱくぱくと動くだけだったが、ルナサはようやく、たった一言だけ
声を絞り出すことができた。





















「……………………レイラ?」


















「な……なんてこと。この私が……」
「あははははははは〜!!」
「そんな……。飲み比べ大会で幽々子様が負けるなんて……!」
「……うえぇ。姉さんが暴走してる。ああなったら誰もあの肝機能には勝てないわ……」





「…………どうして、泣いているの?」
「え……?」

 老婆に言われ、ルナサは自分の目尻に手をやる。すると、指先に温かいものが触れた。
指を離して見てみると、そこには確かに涙がついていた。知らないうちに自分が泣いてい
たことにルナサは驚く。だがその理由はとっくに分かっていた。
 騒霊「三」姉妹を作り出した人物がそこにいたからだった。
 
「あ、はは……。目に、何か入っただけ」

 ルナサは涙を拭いた。実際には目に何か入ったくらいで出る量をはるかに超えていたが、
ルナサはそこまで正直に話さなかった。
 
「久し振りね、レイラ……。元気、だった?」

 ルナサは老婆に微笑んだ。霊は死んだ身とはいえ健康不健康がある。総じて健康なこと
が多いが、これは挨拶だ。特に意味はなさない。ただ、まさかいるとは思わなかった人物
を前に、うまい言葉が見つからなかったのだ。
 老婆は惚けた顔をしている。年をとって死んだからボケているのだろうか。確かに、3
人がこの老婆と別れてからずいぶんな時間が過ぎているが。
 老婆は困ったような表情を作ると、口を開いた。
 それはルナサにとって、また妹たちにとって、信じたくない言葉だった。
 
「……ごめんなさいね。私は、生前の記憶というものがないの」
「………………!!」


 ――ガチャン。


 ルナサの持っていた一升瓶とコップが地面に落ちた。
 生前の記憶が、ない。
 押し寄せる様々な感情を抑えようとして、ルナサは頭を抱えた。耳をふさぎ、目をぎゅ
っとつむる。歯を食いしばってリフレインする言葉を止めようとする。
 覚えていない。
 覚えていない。覚えていない。
 覚えていない。覚えていない。覚えていない。
 覚えていない。覚えていない。覚えていない。覚えていない。
 
「……………………っ!!」

 大きく息を吸い込む。自分を落ち着かせる方法などいくらでも知っている。あふれ出す
この気持ちは絶対に止められないと分かっているけれど、それでも今は、冷静にならなけ
ればならない。
 そうだ。仕方のないことなのだ。死んだ者は、誰でも生前の記憶を失ってしまうのだ。
輪廻転生の輪に再び舞い戻るため、それまでの記憶を浄化しなければならないからだ。当
然、この老婆にだってそれは適用されるのだ。
 自分の名がレイラ・プリズムリバーであることも、ルナサたち騒霊三姉妹を作ったこと
も、何もかも忘れていなければならないのだ。
 
「……大丈夫?」

 老婆がルナサの顔を覗き込む。ルナサはゆっくりと深呼吸をした。少しずつ気持ちを落
ち着け、肩の力を抜いていく。まだ頭がわんわんと鳴り響いているが、幾分冷静さを取り
戻したルナサは大きく息を吐いた。
 
「ええ、大丈夫。ちょっと、目眩がしただけ」

 我ながらうまい表現だと思う。目眩がしたのは事実なのだから。ルナサは本音をごまか
して答えた。
 今ルナサの目の前にいる老婆は、かつてプリズムリバー家の四女だった。すなわち、ル
ナサたちの妹ということになる。現在の騒霊であるルナサたちとの直接の姉妹ではないが、
しかしルナサたちを生み出したレイラは初めから3人を姉さんと呼んでいた。生みの親で
ありながら妹でもあるという、不思議な関係だった。だが3人はそんなことは一切気にせ
ず、レイラと共に毎日を楽しく過ごしていた。
 しかし、霊であるルナサたちと違い、レイラはただの人間だった。当然、年をとれば死
ぬ。人間は妖怪の食料であるこの幻想郷において、レイラは普通に年をとり、「普通」に
寿命で死んでいった。
 それ以後、どのくらいの年月が流れたのか分からない。それくらいの時間を3人は過ご
してきた。レイラのことを忘れたことなど1度としてなかったが、しかし確実に、3人に
とってレイラは思い出の存在になっていた。
 どうして忘れていたのだろう。幻想郷で死んだ人間は、よほどの例外がない限りみなそ
の魂が冥界に行くというのに。レイラの魂も冥界に行っていたはずだったのに。
 
「隣、座ってもいいかしら?」

 老婆が尋ねる。ルナサはうなずこうとしてその場所に酒が撒き散らされていることに気
づき、場所を変えようとした。
 
「いいのよ、ここで」

 しかし老婆はルナサの言葉に首を振った。酒とガラスをよけて、なるべく視界の風景が
変わらない場所に座る。ルナサもそれに習い、老婆の隣に座り直した。
 さあ、とそよ風が吹く。水面にわずかな波が立った。2人はお互い口をきかなかった。
ただ、森の中にあるほんの小さな広場に目を向けていた。
 言いたいことがたくさんある。訊きたいことが山ほどある。けれど、ルナサは何も言え
なかった。思いがけない出会いに頭が混乱してるし、そもそも何を訊いても十分な答えは
期待できない。
 ルナサは、死ぬ前のレイラしか知らないのだから。
 
「……確か、よく冥界には来てるわよね」

 と、ルナサが水面を見つめていると、老婆が話しかけてきた。
 
「え、ええ。よく宴会で呼ばれるから……」

 ルナサはおざなりにうなずいた。
 
「そう、やっぱりね……。白玉楼で合奏してるの、よく見かけたわ」
「それなら……!」

 どうして、と言いかけて、ルナサは口をつぐんだ。
 会いに来なかった理由など、とっくに分かっているではないか。ルナサはうつむいた。
 今、老婆の素姓を教えたら、なんと思うだろうか。自分は彼女の姉で、四姉妹であるこ
とを。外見はこんなにも年齢差があるけれど、4人はずっと一緒に暮らしてきたと。
 それは、できない。教えても理解されないからだ。第一、教えてどうなるというのか。
いずれ彼女も、輪廻の輪に加わるのだから。
(……?)
 ふと、ルナサは違和感を覚えた。
 しかし、それを考える前に老婆が口を開く。
 
「あなたは、何で演奏しているの?」

 優しい声。あの時と何も変わっていない。ただ1つ、とてもとても大事なことが抜け落
ちているだけで。
 
「……ヴァイオリン」

 家族と話しているのに、こんなにも心は離れている。一言一言を吐き出すたびに、心が
歪んでいく気がする。変なひびが入り、軋んでいく。
 それでも持ち前のポーカーフェイスで、ルナサは無表情に答えた。
 
「そう、ヴァイオリン……」

 老婆はなぜか嬉しそうに呟く。
 
「何か弾いてくれないかしら?」

 ルナサはその言葉に顔を上げた。老婆はルナサを見つめている。優しい、この季節のよ
うに暖かい微笑だった。
 彼女はそうして死んでいった。最期まで笑顔を絶やすことはなかった。いつも一緒に笑
っていた。

「……ええ」

 ルナサはうなずくと立ち上がった。
 妹たちも呼んで3人で演奏しようかとも思ったが、多分演奏できる状態ではないだろう。
それに、2人には会わせたくなかった。レイラのことを話すのを禁止するのは、3人の暗
黙の了解だった。そうすることで、3人は騒がしくやっていけたのだから。
 忘れず、だけど思い出さず、悲しみを最低限に抑えてきたのだ。もし2人に会わせたら、
きっとこれからの数日間、下手すれば数ヶ月以上何もできなくなってしまうかもしれない。
 悲しみを背負うのは自分だけでいい。あの2人が笑っていてくれれば、きっと自分もつ
られていけるだろうから。
 ルナサは自分のヴァイオリンを引き寄せ、構えた。別に手に持たずとも弾けるが、たっ
た1人の聴衆、誰よりも会いたかった人のためには、それは失礼というものだ。
 弓を引く。静かに深呼吸をして、ルナサは小さな演奏会を始めた。
 あの時と同じ曲で。







「あはははははは、は…………?」
「ねえさ……ん?」

 かすかに聞こえる、ヴァイオリンの音色。
 それは、この冥界に最もふさわしく、また最も似つかわしくない曲だった。
 
「……鎮魂歌、かしら?」

 幽々子が頭をもたげる。
 風に乗って流れる悲しい音。泣き叫ぶ心を抑えて、その気持ちを少しずつ少しずつ押し
出している。音が揺らぐ。震え、こぼれ、ふらつく。立ち、叫び、つぐむ。やりきれない
想いを、彼方へと消し去るように。
 わずかに残った桜の花びらと共に、ヴァイオリンの音が響き渡っていた。







 最後の一音が消える。ルナサは数秒の間姿勢を固定したあと、ゆっくりとヴァイオリン
を下ろしてお辞儀をした。
 
「ご静聴、ありがとうございます」

 老婆は微笑を絶やさぬまま、ルナサに小さな拍手を送った。
 
「とても、いい曲だわ。気持ちがこもっていて、心に染み渡る……」
「ええ……」

 当たり前だ。どんな気持ちでこれを弾いたと思っているのか。
 これは、レイラが死ぬときにルナサが弾いた曲だ。ごちゃごちゃした演奏会はそれまで
も何度かやってはいたが、ソロで弾くことはほとんどなかった。だがそれを、自分を作り
出したたった1人の人間のために弾いたのだ。そして今もまた、同じ人に、同じ曲を。
 ルナサは鼻をすすった。どうしても悲しくなってしまう。レイラが死んで、数え切れな
いほどの年月の中に封印していた想いがあふれている。誰よりも会いたかった人。しかし、
誰よりも会いたくなかった人だった。
 
「あの……」

 ルナサは地面に座り直すと、おずおずと切り出した。
 
「……どうして、ここに来たんですか?」

 姉妹だが他人である霊に、ルナサは尋ねる。質問というよりは、確認に近かった。もし
かしたらという、ちりよりも小さい希望的な言葉が出るのではないかと思っていた。
 
「……そうね」

 老婆は少し考える仕草をした。
 
「……懐かしかったから、かしら?」
「………………」

 何がだろう。老婆は以前にもここに来たことがあるのだろうか。ルナサは何がどうなっ
ているのか分かっているのに、そのことを望んでいるのに、否定的に考えた。
 ルナサが聞きたい言葉は。
 
「生きているときの記憶なんてないはずなのにね……。ここは、私が昔住んでいた家に似
ている気がするのよ」

 老婆は遠い目で語る。消えた記憶から何かを探し出すように、じっとその風景を見つめ
ていた。その先にあるのはこの景色か。
 それとも、遥か彼方のあの家の庭か。
 
「……もう1つ」
 ルナサは言葉を加える。憶測でしかないけど、と断りを入れて。
 
「……あなたは相当昔にここに来たんじゃないですか?もしそうなら、なぜ、輪廻の輪に
加わっていないんです?」

 ルナサたちは騒霊であり、亡霊ではない。したがって輪廻転生に加わることはない。だ
がレイラは間違いなく亡霊である。亡霊ならば長くとも数年で転生することになるのだ。
ただ1人、西行寺幽々子という例外を除いて。
 なぜ幽々子が転生しないのか、その理由はルナサは知らないが、しかし亡霊はいつまで
も冥界にはいられないのである。
 
「……さあねえ」

 ふ、とため息を漏らし、老婆は答えた。
 
「私にも分からない。まあ、転生したいとも思わないしね。ただ、何か胸に残っているのよ」
「何か……?」

 老婆はうなずく。
 
「何かよ。それが何なのかは分からない。けど、このしこりのようなものが気になってね
……。おかしいわね。何もかも忘れてしまったはずなのに、何かが残っているなんて……」

 それが気になって転生などできないというのだろうか。それが何か分かるまで、永遠に
分からないものが分かるまで、この冥界にとどまろうというのか。
 ルナサは苦笑した。なんと頑固な老婆か。
 やはりこの老婆はレイラだ。実に諦めが悪い。生前もそうだった。何度も失敗したらし
い騒霊作り。それでも姉たちと一緒にいたくて諦めなかった。できあがった霊が外見以外
は本物と全く違った上に、初めのうちはちっともコミュニケーションが取れなかった。
 しかしレイラは諦めなかった。何度も何度も姉の騒霊たちと意思の疎通を図ろうとした。
 努力が報われるまで、絶対に諦めなかった。
 
「……やっと、笑ってくれたわね」

 ルナサがレイラのことを思い返していると、老婆が声をかけてきた。ええ、とルナサは
うなずく。

「……そろそろ、行ったほうがいいかな」

 そう呟くと、ルナサは立ち上がった。
 
「行くの?」

 老婆は座ったままルナサに訊く。
 
「ええ。多分、そろそろ呼ばれるんじゃないかと思って」
「そう……」

 本音は酒に潰された妹たちが心配なのだが、それを言うわけにはいかない。あの世に法
などないが、霊の記憶を呼び覚ますようなことは控えたほうがいいのが倫理的なのである。
 もしも中途半端に記憶を蘇らせると、苦悩のあまり消えてしまう霊もいるからだ。
 逆に、いつまでたっても転生しない迷惑者も現れることになる。
 この、年老いた妹のように。
 
「それじゃ……」

 もっといたい。もっと話したい。
 たくさんやりたいことがあった。たくさんやってほしいことがあった。
 だがそれは叶わない。全てを殺して、今ここで分かれなければならない。
 一礼をして、ルナサはそこから飛び立った。こぼれる涙は、この際だから涸れるまで流
しておくことにする。どうせ、拭いても出てくるのだから。

 きっと、あの老婆とはもう2度と会うことはないだろう。そうなるように努めたい。当
然、このことを妹たちに話すのはよす。こんな悲しみを味あわせたくない。
 また会うことで、あの時開いてしまった心の穴を広げるようなことなどしたくない。
 たとえ、また会うことでそれ以上に心が満たされるとしても。





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