小  説

28-虚空の門番


 その館の門番を司る妖怪、紅美鈴の朝は早い。春と秋は夜明けと同時に、夏はそれより
少しだけ遅く、冬は日が昇る前に起きてくる。遅番であればこれから仮眠を取るところな
のだが、最近ではもうそんなこともなく、毎日空が白んでくる頃に目を覚ましていた。

 目を開け、少々気だるい体を起こす。警備隊詰所の仮眠室、さらにその奥にある扉の先
が隊長美鈴の部屋だ。所狭しとベッドが並ぶ仮眠室と違い、美鈴の部屋はちゃんと個人の
ものとして機能している。少なくともプライベートなものではあるだろう。

 美鈴はベッドから這い出た。カーテンを開け、まだ少ない日の光を部屋に入れる。暗い
部屋がうっすらとその姿を映し出していった。

 ふわ、とあくびを1つ。今日もこれから1日が始まるのだ。気合を入れて頬を叩く。も
ちろん後で身だしなみも整えるが、早寝早起きをばっちり実行している美鈴は大抵これで
完全に目を覚ます。

「おはようございます、咲夜さん。おはようございます、お嬢様。パチュリー様も、フラ
ンドール様も」

 そうして美鈴は、机の上に座っている4人に挨拶をした。みんなつっけんどんだから返
事が返ってくることはないが、上司が部下に挨拶を返さないことに美鈴は別段反感は持っ
ていない。自分だって警備隊の上司なのだし、いちいち挨拶を返すのは結構億劫なのだ。


 クローゼットからいつもの服を引っ張り出す。長く使っているせいでだいぶ色褪せてし
まっている。破れたところや綻んでいるところもそろそろ直すくらいではもたなさそうだ。
 布地の調達に行きたいが、残念ながら門番である自分が館を空けるわけにはいかない。
仕方なく美鈴は袖に腕を通した。

「咲夜さんも、もう少し労ってくれてもいいのに……」 

 ため息をついて美鈴は部屋を出た。あまり下手なことを言うとナイフが飛んでくるから
声量は低く。口は災いの元。洗面所で美鈴は顔を洗う。ぼさぼさの髪に櫛を通して梳いて
いく。我ながら便利な髪だ。あっという間にいつものさらさらな紅いロングストレートの
髪が戻ってくる。手からぱらぱらとこぼれていく髪の毛に満足して、美鈴は洗面所を後に
した。 

 まずは朝食を取ろう。美鈴は食堂へ向かった。いつもなら食堂には四六時中誰かがいる
ものなのだが、極めて残念なことに最近はもうそんなこともなくなってしまっている。今
時分、食べたいものは自分で作るしかないのだ。美鈴は食堂の調理室に入り込んだ。梅雨
も近く、食べ物が傷みやすい。今のところ保存食が大量にあるからそれでこと足りている
が、やはりそのうち調達に行かなければならないだろう。美鈴は手頃な食材を取って、調
理を始めた。朝は消化のいいお粥。無論それだけでは足りないから、後で食べるために点
心も作っておく。

「ん……こほっこほっ!」 

 火や自分の動きで周りの埃が舞う。それを吸い込んでしまい、美鈴は咳き込んだ。


「もー、掃除くらいちゃんとしてよねー。仮にも調理室なんだからー」 

 誰もいない調理場で美鈴はぼやく。誰もいないのだからいくら言っても仕方ないが。も
っとも、掃除をするなんて殊勝な輩はこの館には存在しないのだが。 

 雑巾を持ち、食堂のテーブルを拭く。少ししか洗われていない食器を持ち出して、美鈴
は席についた。途端、嫌な音がして尻が痛くなる。一瞬の後、美鈴は椅子が壊れたという
ことに気がついた。

「痛たたたた……。もう!備品管理くらいしなさいよ!」

 憤慨した声をあげるが、聞く者は誰もいない。みな美鈴を無視していた。無音の音が食
堂を包む。ちょっとだけやりきれない思いになったが、美鈴はもう1つ椅子を引っ張って
きて、それに座った。脚の長さがあっていないせいで少々座りにくいが、ないよりはいい
だろう。1つしかないこのテーブルだってそうなのだから。 

 朝食を食べ終える。まだ誰も食堂にはやってこなかった。みんな寝坊してるなあ、この
ままじゃ揃って咲夜さんに叱られるなあ、と苦笑して、美鈴は食器を片付けた。10人も
入れない小さな部屋から出る。これでようやく、自分の仕事だ。 

 幅の狭い廊下を歩く。食堂から門までの距離も大したことはない。美鈴はこつこつと足
音を鳴らし、館の外へ出た。 

 いい天気だった。洗濯物を干すにはちょうどいい。メイド長も喜ぶことだろう。ぐっと
伸びをする。とりあえずは毎朝の気の調整からやるか。最近は館を荒らしにくる不届き者
が増えたから、今のうちに体を動かせるようにしておかなければならないだろう。深呼吸。

ゆっくりと息を吐きながら、美鈴は動く。基本は太極拳のようなものだった。気を整えら
れるなら何でもいい。朝日を受けながら、美鈴は静かな舞を舞っていた。










 気配を感じた。一瞬だったが、おそらく数は8くらい。また性懲りもなどこぞの三流妖
怪共がやってきたらしい。正門のほうには自分がいるから別のところから入るつもりか。
確かに窓は手入れがされていないから入りやすいだろうけれど。美鈴はその場を離れ、館
の周りを回った。

 案の定、低級な妖怪が今まさに館に入ろうとしていた。警鐘も鳴らさないで、一体警備
隊は何をしていたのか。このままおめおめと中に入れてしまったら、また咲夜のナイフが
自分に向かって飛んでくることになる。それは避けたい。美鈴は目標を確認すると、気を
練り足に集め、一気に踏み込んだ。妖怪が美鈴に気づいて迎撃しようとするが、まったく
もって遅い。美鈴は1番近いのを体当たりで吹き飛ばした。体がそこで止まったのを機に、
回し蹴りを放つ。もう1匹が木に叩きつけられた。

 奇声をあげて妖怪が群がってくる。しかし、美鈴にとってそんなものは敵のうちにも入
らない。素早い体術で1匹1匹確実に打ち落としていく。弾幕など必要なかった。相手の
攻撃を受け流し、払い、的確な一撃を浴びせる。悶絶したところに上からかかと落とし。
妖怪が地面に倒れる。同じ要領で、美鈴はあっという間に全てを片付けてしまった。

「はい、さようなら」

 折り重なった妖怪。その1番上に手を乗せる。短く息を吐き、美鈴は妖怪に気を撃ち込
んだ。まだ辛うじて生きていた妖怪たちは、それで完全に絶命する。心臓の気を狂わせれ
ばみなそれで死ぬからだった。

 「これ、食べられるかなあ……」
 
 妖怪の死体を前にして、美鈴は考える。今食べたばかりだから食べたいとは思わなかっ
たが、今後避けることのできない食糧問題の解決策になるかもしれなかった。そういえば
今までは殺した後全て湖に捨ててしまっていた。
ちょっと残念だと思った。人間だったら問答無用で保存するのだが、流石に悪魔の館に人
間は来ない。 今、その悪魔が館にいないとしてもだ。

「!」

 保存法と調理法を思案していた美鈴だったが、不意に別の気配を感じ取った。

「しまった!こっちは囮!?」 

 二手に分かれていたのか。妖怪たちの気配が正面のほうに集まっていた。しかも数が多
い。ちっと舌打ちして、美鈴は正門のほうへ駆け出していった。

「痛っ!!?」

 しかしその途端、美鈴は何かにつまずいて転んでしまった。何事かと思って振り向く。
 

 そこには、何やら仰々しい石が置かれていた。表面は見事に磨かれ、日の光を受けて輝
いている。その表面には何か文字が刻まれていた。

「もうっ!誰よ、こんなところにこんなの置いたのは!!」

 だが今はそんなものにかまっている余裕はない。膝をすりむいた美鈴は、その足で石を
蹴りつけた。鈍い音がして石が割れる。それを見るか見ないかのうちに美鈴は踵を返して
正門へと飛んでいった。今度は何かにつまずいたりしないように。

 


 美鈴は忘れていた。その石をそこに設置したのが自分だということを。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらその石を磨いたことも。
 その石の下に何があるかも。

 そして、その石に刻まれた、「十六夜咲夜」の文字も見えていなかった。









「だあああああああああ!!」

 館の中に侵入した妖怪を発見した。雄叫びを上げながら美鈴は接近する。妖怪は散り散
りになったが、館の中では美鈴に一日の長がある。手近にいた、逃げ遅れた妖怪に、背筋
の凍るような一撃をお見舞いする。妖怪はあえなく吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
 他の妖怪を探そうと首を回す。それと同時に、美鈴は天井近くまで飛び上がった。直後
に足元すれすれを大きな妖弾が通過していく。空中で止まり、美鈴は発射地点と思われる
方向を見た。案の定、物影から1匹の妖怪が自分に向けて妖弾を撃とうとしていた。

「あーもう!どいつもこいつも……!」

 気を読み、敵の位置を把握する。襲い来る弾を巧みにかわす。

「……弾幕を殺しの道具に使っちゃって!!」

 うんざりした声で美鈴は叫ぶ。そして、胸元から1枚の符を取り出した。

「そっちがその気なら、こっちだっていくわ……幻符『華想夢葛』!!」

 符が炸裂する。夥しい数の青い妖弾が撒き散らされる。隠れていた妖怪たちが、その妖
気と殺気に怯え、我先にと飛び出してきた。だが以前と比べ、こうした妖怪たちを純粋に
殺すために改良した符の前では、誰であっても逃れることはできない。逃げられるような
隙間など、初めから用意されていないのだから。

 数瞬後、館の廊下には1人しか立っていなかった。残る全ては、紅い塗料と一緒に壁や
床に貼り付けられていた。

「……あっちゃあー」

 美鈴はその惨状を見て、頭を抱えた。

「まいったなあ、こんなに汚しちゃ、咲夜さんに怒られちゃうよ」

 心底困った表情で美鈴は呟く。だが突っ立っていては本当に叱られてしまう。証拠隠滅
は早いに越したことはない。美鈴は急いでモップと雑巾を取りに行った。 

 ボロボロで真っ黒な雑巾と、毛の部分がほとんどなくなってしまったモップで、美鈴は
掃除を始めた。容積のおかしいバケツが見る見るうちに紅くなる。

「メイドたちはいつまで寝てるつもりかしら。こんなの、本来私がやることじゃないのに
……」

 ぶつぶつ呟きながら、美鈴は床を拭き続けた。

「それでなくてもここ最近館の中は埃かぶってきてるのに……。メイドどころか、咲夜さ
んも何してんだろ。あんまり中の様子とか見ないけど、ひょっとしてみんな普段はさぼっ
てるのかしら」

 じゃぶじゃぶとモップを水でゆすぐ。異様に変色したモップは、水に漬けるだけでその
毛が抜けていく。それに、もはや水ではなく薄められた血液で洗っているのだから、毛は
ちっともきれいにならなかった。それでも美鈴は洗う。なかなか毛がきれいにならないこ
とに苛立ちながら。

「あ、あれ?咲夜さん?」

 その途中、美鈴は不意に顔を上げた。

「あ、いやそのこれは……妖怪が中に入っちゃったので倒したんですけど。ちょっと汚れ
ちゃったかなーなんて……ああっ!だからナイフはやめてやめてきゃー!!」

 美鈴はモップを放り出し、何かから逃げるように壁に張り付いた。既に涙目で体はがた
がた震えている。鬼のメイド長の恐ろしさという条件反射は、彼女が館にやって来たとき
から美鈴に刷り込まれていた。

「だからですね咲夜さん、そこはそんなに怒るところじゃなくって……!あ、そうだ!咲
夜さん咲夜さん、ほらこないだ私咲夜さんの人形作ったって言ったじゃないですか。あれ
完成してるんですよ、しかもお嬢様まで作って」

 急に不自然な笑顔を作って美鈴は語る。今見せてあげますね、と美鈴は懐を探るが、人
形などそこに入っているはずもなかった。それは最初に咲夜に見せて以来、1度も美鈴の
部屋から出したことはないのだから。

「あれー?おかしいなあ。いやほんとですよ?ほんとですってばあ!」

 人形が見つからないので、慌てて美鈴は弁明する。ナイフはやめてナイフはやめてと繰
り返す。 

 誰も聞く者などいないというのに。 
 誰も、そこにはいないというのに。 

 美鈴はただひたすら、何もない空間に向かって喋り続けていた。









『ありがとう……』
『咲夜さん!!咲夜さんっ!!』
『咲夜……』

 ベッドに横たわる人間。その体に精気はなく、その目に生気はなく。 
 しかしそれでも、人間は最期に目を閉じて、安らかな微笑を浮かべた。

『私、は……幸せでした……』

 手が、落ちる。 
 何かがその体から消えていった。

『……うあああああああああ!!!』

 広大な館の一室で、哀しい叫びが響き渡っていた。










 ようやく咲夜から逃れ、美鈴は門のところに戻ってきた。ちなみに、掃除用具は全て出
しっ放しである。そのことはきれいさっぱり忘れ、今さっきまで咲夜に怯えていたことも
忘れ、美鈴はいつも通りの仕事を再開した。とはいえ、誰か来なければ門番も役には立た
ない。いつからか、あの霧雨魔理沙も館には来なくなっていた。パチュリー様も心配して
るだろうに、と美鈴は苦笑する。もっとも、美鈴はこのところパチュリーとはまったく顔
を合わせていない。図書館に行くことはないし、そもそも図書館自体がもうないからだっ
た。かつて壁の中に無理矢理別離空間を作り出し、その中に存在していた図書館。だが今
は、その空間を維持する者がいない。咲夜もレミリアも無頓着だ。それ以後パチュリーを
見ていないし、また司書の小悪魔がどうなったのかも、美鈴は知らない。会わないなとは
思っているが、別段気にしていなかった。

 図書館がなくなってしまったのなら、魔理沙も来ないだろう、などと美鈴は勝手に納得
していた。 

 どうして図書館を維持する者がいないのか、それについては全く忘れてしまっていた。
 

 美鈴は館の周りを回ることにした。雑草がここぞとばかりに生えまくっている。よく手
入れのされた花壇があったから、植物の生長には絶好の場所だったのだろう。

「……あっれ?」 

 ふと、美鈴は無造作に転がった石の前で立ち止まった。元はくっついていたであろうき
れいに研磨された石が、真ん中あたりでばっかり割られてしまっていた。

「うわー!!誰よ誰よこんなことしたの!!咲夜さんのお墓を壊すとはなんてばち当たり
な……!」

 美鈴は慌てて転がった墓石を拾い、元の場所に乗せた。自分がつい先ほど蹴りで割った
ことは忘れていた。 

 接着できるものがほしいが、あいにく館にそういったものはない。パチュリーに頼もう
にもパチュリーがいない。外に行こうにも自分が持ち場を離れるわけには行かない。八方
塞がりだった。

「ううう、ごめんなさい咲夜さん……。どうかバレませんように。いやバレるだろうなあ
……」

 そしてまた雨のようにナイフが飛んでくる。嫌な想像をかき消したくて、美鈴は首をぶ
んぶん振った。 

 墓石を戻し、ため息をついて美鈴は立ち上がる。

「……そういえば、お嬢様もここにこうやって立ってたっけなあ……」

 感慨深げに美鈴は呟いた。 
 今でもはっきり覚えている。

 

 夏の暑い日。日傘と花束を手に、昔と比べ幾分成長した少女が庭を歩く。誰を見るでも
なく、何を見るでもなく、少女は庭の中で最も日差しの当たる墓石の前に立っていた。最
も信頼していた、最も愛していた従者の墓。彼女の死から、少女が己の命の行方を決める
まで、それほど時間は経たなかった。或いは、彼女の遺体を埋めた時点で既に決めていた
のかもしれない。 

 少女が花束を両手に抱く。日傘は、重力に逆らうことなくゆっくりと地面に落ちた。 

 照りつける眩しい夏の日差し。それは容赦なく少女を焼き尽くす。その痛みなど全く感
じていないかのように、あの日から笑わなくなった少女は、ただ微笑みだけを浮かべてい
た。

 ――ばさり。

 花束が地面に落ちる。それは、ごく自然に手向けられたように見えた。無造作に、
けれど美しく墓石に置かれていた。捧げた人物は、もういない。あとに残されたのは花束
と、そして少女の着ていた服だけだった。

 美鈴が少女の死に気づいたのは、少女の服が風に飛ばされていたのを見たからだった。 
 もう、彼女の墓を見る者はいなかった。 
 今でもはっきり覚えている。 
 しかし、次から次へとやってくる死に、美鈴の精神はもたなかった。
 

 美鈴は知っている。咲夜が死んだせいで屋敷内の広げられていた空間が壊れたことを。 
 美鈴は知っている。咲夜を追うようにしてレミリアが陽光の中に消えていったことを。 
 美鈴は知っている。2人が死んだことで紅魔館の全てのメイドが辞めていったことを。 
 美鈴は知っている。時を同じくして魔女や悪魔の妹が紅魔館からいなくなったことを。 
 美鈴は知っている。紅魔館には今やもう自分を除いて誰も住んでいないということを。

 だから、忘れてしまった。 

 自分が知っていること、覚えていることを記憶に留めておきながら、その全てを退け、
或いは受け入れ、そうして苦悩しているうちに壊れてしまった。 覚えている。でも忘れ
てしまっている。 

 知っている。でも認めないでいる。 

 現実に刃向かおうとして、しかし全てを認めてしまっている自分がいて、何もかもが嫌
になっていた。 

 輝いていたあの日々から、数え切れないほどの年月が過ぎて。たった1人、紅の廃墟を
守り続けている。もはや何の意味もなさない、「門番」という責務を果たすためだけに。









 夕焼け。

 紅の館がより一層紅くなる。そこに立つ1人の女性。その館の経緯を知らない者ならば、
そこの主人は彼女ではないかと思うことだろう。彼女の持つ紅の美しい髪は、まさしくそ
の館の名前にふさわしいのだから。 

 それでも彼女は首を振る。 

 ここには麗しいお嬢様がいらっしゃいます。 
 お嬢様には最高の従者がいらっしゃいます。 
 お嬢様には素敵な友人がいらっしゃいます。
 お嬢様にはかわいい妹がいらっしゃいます。 

 誰もいない館を背に、彼女は自慢気に話すことだろう。そしてその美麗さを守るために、
己の全てを賭けて闘うことだろう。その行動に、意味がないことが分かっているとしても。 

 守りたいから。 

 心のどこかにある、虚構という思い出を。

「……そろそろ、お嬢様が出てこられる頃かな」

 夕日が山の向こうに隠れるのを見て、美鈴は楽しげに呟いた。このところ物騒だからあ
まり外に出ないほうがいいと思うのだが、どうせ言っても聞きはしないだろう。美鈴は苦
笑する。

「お嬢様だから平気だろうけどねー」










『い、妹様!?』
『……あは、あはははは……』

 美鈴は驚愕の声をあげた。いくらフランドールの気が触れているとはいえ、こんな真っ
昼間から外に出てしまっては自殺行為だということくらい分かっているはずだった。

『外に出ちゃ駄目ですよ!早く中に戻ってください!』
『ふふ……ねえさま……ねえさま……』

 ――ドサリ。

 ――バサッ。

『……フランドール、様……?』

 虚ろな目から涙が流れている。うわ言を言いながら、フランドールは外に出てしまった。
何かを追いかけるように、危なっかしい足取りで日向へと踏み出す。日の光が吸血鬼の体
に容赦なく浴びせられる。

 少女は、あっという間に灰になってしまった。

『………………』

 レミリアの死を知ってから数日後、フランドールは完全に発狂してしまっていた。止め
る者など端から存在しない。少女が立っていたところには、ぼろ雑巾のような服だけが落
ちていた。 

 突然の出来事に、美鈴の思考は完全に止まってしまった。突風が灰を巻き上げ、それを
吸い込んでしまっても、美鈴は呆然としたままだった。 

 紅魔館に住む最後の1人の慟哭が発せられたのは、それから数刻後のことだった。










 夕食の後もまだ門番としての仕事は残っている。早番だの遅番だの、そういった制度が
だいぶ前に廃止されてしまったからだった。だから朝起きて仕事についたら、夜寝るまで
門のところにいなければならないのだ。季節を問わず。

 その最中に、またも野党じみた連中がやってきたので退治しておいた。全くもって不快
極まりない。美鈴が1番心を休められるときは、風呂に入っているときくらいだった。

「また来るかもしれないなあ。どいつもこいつも懲りないなあ」 

 風呂から上がると、ようやく1日の仕事も終わりである。溜まった疲労をお湯と一緒に
流し、消費した体力を睡眠によって取り戻す。明日も早いから、美鈴はすぐに寝てしまい
たかった。決して油断はできないのだが、襲い来る眠気にはいかな弾幕をもってしても勝
てないのだった。美鈴は警備隊の詰所にある自分の部屋に戻ってきた。 

 館は誰も使っていないのだから何も付属施設のほうで寝なくてもいいのだが、美鈴は館
で寝ようとはしない。 

 そこは館主の部屋だから。 
 そこは従者の部屋だから。 
 そこは魔女の部屋だから。 
 そこは妹様の部屋だから。 

 それに自分の部屋があるのだから、美鈴はそれで満足していた。寝巻きに着替え、ベッ
ドを整える。

「おやすみなさい、咲夜さん。おやすみなさい、お嬢様。パチュリー様も、フランドール
様も」

 机の上に乗る、4体の人形に向かって挨拶する。みんなつっけんどんだから返事を返す
ことはないが、挨拶するのが部下の義務だろう。部屋の明かりを消し、美鈴はベッドに潜
り込んだ。



 誰もいない館には、番人など必要ない。そんな仕事など、ただ虚しいだけであろう。

 それでも彼女はそこにいる。 
 空の館を今でも守り続けている。 紅の館に立つ、紅の髪を持った妖怪。
 門番、紅美鈴。


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