小  説

63-紅 前編

 紅い霧を晴らしたり。
 
 いつまでも訪れない春を取り返したり。
 
 欠けた月を元に戻したり。
 
 この1年ほど、幻想郷では割と大きな出来事が発生していた。日常に毛が生えた程度の
事件でしかないが、何かと人間や妖怪を騒がせたのは事実である。
 そして今、幻想郷に再び未曾有の大事件が訪れていた。
 
 といっても、紅魔館限定だが。







 メイド長が風邪を引いたのである。







 幻想郷で1、2を争う富豪、レミリア・スカーレット治めるこの紅魔館において、人間
でありながらその時を止める程度の能力で他の力ある妖怪たちを全て押 さえ込み、働き
始めてからわずか数ヶ月でメイド長にまで昇格した銀髪の少女。少女というにはその顔立
ち、佇まいは凛としており、同性であってもため息をつ いてしまう妖しい美しさがあった。
歴代メイド長の中で最強にして最高と主が認め、いつからか名づけられた「完全で瀟洒な
従者」十六夜咲夜。欠点といえば猫 舌くらい。まさしく完璧という言葉がふさわしい人物
である。

 その咲夜が風邪を引いたのだ。紅魔館は文字通り震撼した。近いうちに槍でも降るかも
しれない。ナイフはともかく。

 持ち前の体力、規則正しい生活、栄養ある食事、適度な運動。これのどこに風邪を引く
要素があるというのか。もちろん夜に暑いからといって、窓を開け腹を出して寝ていたわ
けではない。そもそも今は秋なのだから。

 しかし、咲夜が風邪でダウンしたのは紛れもない真実である。そのありえない出来事に、
一部の者以外面会禁止になってしまったのだ。その理由の1つに、十六夜咲夜ファンクラ
ブが大挙してお見舞いに来ようとしたというのは、本人の知るところではない。

「咲夜もやっぱり人間だったのね」

「……お嬢様といると、なぜか私まで悪魔扱いされてしまいますが」

 今咲夜の部屋にいるのは2人。当の咲夜と、その主レミリアである。咲夜はもちろんい
つものメイド服ではなく、寝巻きで額にぬれたタオルを乗せていた。

 レミリアは、その咲夜の頬をツンツンとつついている。
 
「……お嬢様、風邪がうつるといけませんから、お部屋へお戻りになられては……」

「あら、私は風邪くらいじゃ死なないわよ」

 遠回しに頬をつつくなと言っているのだが、レミリアは意に介さない。意外にも結構柔
らかい咲夜の頬をぷにぷにとつついている。

「そういうことではなく……。風邪を引いたら紅白巫女が来なくなりますよ」

「私からいつも行ってるからいいわ」

「そういうことではなく……」

 それでも咲夜に言われ、仕方なくレミリアは引き下がった。安静にしていたほうがいい
のは、彼女も知っているのだろう。

 紅魔館の人間は咲夜1人なので、人間用の薬などはない。現在パチュリーが小悪魔と一
緒に鋭意製作中である。どちらかというとそれは魔理沙の分野だが、今いないのではどう
しようもなかった。

「はあ……情けないわね」

 一体自分の何がいけなかったのだろう。天井を見つめながら、咲夜はため息をついた。
 
 しばらくの間、時計の刻む音しか聞こえなかった。悪戯に時を止めてみても、単に頭痛
が増すだけだった。

 久々にゆっくりするか、と寝返りを打つ。とそのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
 
「咲夜さーん、大丈夫ですかー?」

 返事も待たずに部屋に入ってきたのは、門番紅美鈴であった。
 
「仕事はどうしたの?」

 ゆっくりしようと思った矢先にやってきたのと、無作法だったのと、紅美鈴だったのとで、
少々棘のある言い方で咲夜は訊き返した。

「うわあ、開口一番それですかあ」

 苦笑いを浮かべる美鈴。しかし、そのまま先ほどレミリアが座っていた椅子に座る。
 
「別に少しくらいいいじゃないですか。侵入者なんて滅多に来ませんし、来てもすぐ知ら
せが来るし……」

「だからって怠けていい理由にはならないわ。それに、たまに来る侵入者、撃退出来てな
かったでしょうが」

 霊夢と魔理沙のことである。今でこそ2人は入館の許可が下りているが、それまでは何
度も不法侵入していた。そのたびに美鈴は撃墜されていたのである。

「うぐ……それを言われると……。1年も前ですけど……」

 図星を突かれ、美鈴は言葉が出なかった。
 
 やはり美鈴は1日1回はからかっておかなければならない。なんだかんだで、咲夜は時
間が空くと美鈴のところへ行っていた。そのたびに居眠りをしている美 鈴を、半分本気
の冗談でからかったりしている。もしかすると、昨日忙しくて美鈴のところへ行かなかっ
たのが風邪の原因かもしれない。そう思うと、ますます からかわなければならなかった。

「わかりましたよ。仕事に戻りますよぅ……」

 すねた表情で、美鈴は椅子から立ち上がった。その表情が何ともいえず嗜虐心をそそる
のはともかくとして、咲夜は美鈴を呼び止めた。

「待って」

「はい?」

 ドアの前で、美鈴は振り返った。
 
「貴女の言うことにも一理あるわ。確かに、滅多に来ないでしょうね。仮に来るなら、多
分貴女より強いだろうし。あの2人みたいにね」

「うぁう!」

 美鈴の胸に何か刺さったような気がした。
 
「それで……私、今退屈なの。何か、話してくれない?」

「ええ?話ですかあ?」

 とたん、美鈴は全力で困った顔をする。とりあえず椅子に戻ってきたが、うんうんと唸
るばかりである。

「私、話なんか得意じゃないですよ」

「別にかまわないわよ。……そうだ、昔の貴女の話してくれない?考えてみたら、聞いた
ことなかったわ」

 門や詰所で美鈴とよく話すものの、美鈴の過去というものは咲夜は知らなかった。こん
なにも中国中国しているのだから、あの中国に関係あることは明白なのだが。

「ますますよくないですよ。私の過去なんかつまんないですって」

「望むところよ。眠くなればそれでいいんだから」

「……何気に酷いことを言われている気がする……あ」

 美鈴は、しばらくじっと考え込んでいた。やがて何か思いついたのか、顔を上げると、
また考え込んだ。

「う〜ん……じゃあ、話しますよ?」

「待ってました」

 美鈴は、意を決したように再び顔を上げた。咲夜は一度タオルを交換すると、横になり
ながら美鈴のほうを向いた。

「咲夜さんて、幻想郷の外から来たんですよね?」

「ええ……」

「清、という国をご存知ですか?」

「シン……?もしかして、中国にあった清王朝かしら?」

 学生のときに歴史で学んだことをおぼろげながら思い出す。どのくらい前まで存在して
いたか忘れたが、咲夜が紅魔館に来るよりもずっと前から門番をしていた美鈴は、その辺
りの時代の人間なのかもしれない。そういえば、美鈴の詳しい年齢も知らなかった。外見
どおりではないと思う。

「そうですそうです。もう過去形なのか……。じゃあ、そこがフランスと戦争していたっていうのは?」

「清仏戦争ね。知ってるわ」

 フランスがベトナムを植民地化しようとしたが、そこは属国であることを主張した清と
起こした戦争である。しかし、それは確か19世紀の話ではなかっただろうか。一体この
娘は何歳なのだろう。

「え?中法戦争だったような……まあいいか。そのころの話です。2人の人間の……」
















 上海郊外。巨大な屋敷を持つ紅家はそこにあった。不安定な情勢の中でも、裕福な人間
は裕福なものである。当主の持つ莫大な財産のために、紅家の人間に経済的な不自由はな
かった。

 当主の2人の娘も、おかげで貧困の苦しみを味わうことはなかった。
 
 長女の紅鈴花(リンファ)と、次女の紅美鈴である。
 
 長女は心臓を患っており、そのためおとなしく、いつもベッドに臥せっていた。
 
 対して次女は、その長女の分の元気までも発散するかのように活発であった。外を走り
回っては、見聞きしてきたものを姉に教えるのが妹の役割であった。元気すぎて少々危な
っかしい妹をたしなめるのが姉の役割であった。

「その中腹辺りで、道からちょっと外れたところに沼があってね、そこで大きな魚が跳ね
たのよ!」

 美鈴が今日の出来事にと、両手を広げて大きさを示す。それが妹の思いやりによる嘘な
のかどうかは姉には判断しかねたが、とにかく妹のほうは毎日嬉々としてベッドの上の姉
に報告してきた。

「それはすごいわね。でも、山道を外れるのは危ないわよ」

 優しい笑顔で鈴花は返す。青白い肌に燃えるような紅い髪。大都市上海屈指と謳われる
ほど、鈴花は美人である。床に臥せっているという薄幸さも相まって、結婚を希望してく
る者は多かった。子煩悩な当主のおかげで、いまだまともに男と話した事もないが。

「今度のお見合い、姉さんどう?」

 しかしこのままではよくないと、父親の手で見合い話が進められている。相手も当然高
貴な生まれ、高い位の官僚である。

「ん……。正直、会ってみなければなんともね……。いい人であることを願うわ」

「いい人よ、きっと」

 そのとき、部屋の外からガラスの割れる音がした。
 
「また!あいつら〜」

 美鈴が唸り声を上げる。
 
 清の政治も、今はずいぶん廃れてしまっている。官僚は自分が生き残ることしか考えな
い。そのせいで、先送りにしている国の問題は、結局重税という形で民衆に行き着くのだ。

 貧困と飢饉が、紅家のある町も襲っていた。
 
「ったく!待ってて姉さん、すぐ蹴散らしてくるから。雨戸閉めておいてね」

「気をつけるのよ、美鈴」

「だーいじょうぶだって!」

 美鈴は鈴花の部屋を飛び出すと、1階に駆け下りた。窓ガラスが割られ、数人の男たち
が侵入していた。

「また来たのね」

「うるせえ!俺たちがこんなに苦しんでるってのに、ぬくぬくと暮らしやがって!」

「やっかましい!それで強盗しようなんて、みっともないわよ!」

 上にいる人間の見方である。農民の苦しみは、裕福な人間には分からないのだ。
 
 美鈴もそうだった。食べるものもろくにないから仕方なく彼らは来るのである。お腹が
空いてもすぐに食べ物にありつける美鈴にとって、彼らの行為は非常識そのものだった。

「今日という今日は、余ってるモンよこしてもらうぜ」

「力ずくってわけ?やってみなさいよ」

 美鈴は、す、と左腕を水平に出し、手を上に向け構える。
 
「できるものならね」

 その言葉と同時に、美鈴は疾駆する。相手の視線が自分に合うよりも速く。
 
「……ふっ!」

 鳩尾に拳を突き入れていた。そのまま左回転を起こし、美鈴から見て男の右後ろにいた
人間に、今度は掌底を叩き込んだ。

 瞬く間に2人の男が倒れこむ。美鈴は、いったん呼吸を整えるために構えなおした。
 
 中国拳法、八極拳の構えである。
 
 このように周りの人間が紅家に侵入してくることは、今に始まったことではない。そも
そも、美鈴が生まれる前から、ここは泥棒の被害に遭っていたのだ。

 まともに働きもしない警察に、幼いころからこの事態を見ていた美鈴が痺れを切らさな
いわけがなかった。そして、自衛手段として選んだのが拳法だった。力には力。自分と姉
と、この家を守るための方法だった。

 美鈴はもう一人に肉迫する。標的は慌てて持っていた鎌を振り回した。その刃を巧みに
かわし、腕をつかんで一気に回転させる。関節を極めて体勢を崩す。痛 みに鎌を取り落
とした瞬間、相手に背中を向け、短い気合とともにその小さな体で思い切り相手を吹き飛
ばした。八極拳を代表する技の1つ、鉄山靠である。ち なみに、関節を極めるほうは小
纏崩捶(しょうてんほうすい)という。吹っ飛んだ男は、さらに後ろにいる男も巻き込んだ。

 美鈴は、若干13歳のまさしく少女である。大して背も高くないこんな女の子が、大の
男4人を数秒でのしてしまったのだ。窓から入ったばかりの者、これか ら入ろうとして
いた者、まだ窓の外にいる者、15人ほどいたが、みなその場に立ちすくんでしまった。
しかし、まだやるの、という美鈴の視線にようやく我に 返り、全員が一目散にそこから
逃げ出した。

「あ!ちょっと!こいつら持ってってよ!」

 自分が戦闘不能にした4人はその場に置き去りとなった。仕方なく美鈴は、1人1人担
いで、塀の外に捨てておいた。割れたガラスを掃除して、鈴花の部屋に様子を見に行く。

「姉さん、大丈夫?」

 ノックをしてからドアを開ける。そこには、安心そうな笑みを浮かべた姉がいた。
 
「美鈴、無事だったのね」

「当ったり前じゃない」

 にっと笑って、美鈴は椅子に座った。
 
「半年で奥義までたどり着いた私をなめないで」

 美鈴が八極拳を習い始めたのは、わずか半年前である。父親に無理を言って、最も強い
使い手とされる人間を探してもらったのだ。しかし相手は最強。美鈴は即座に放り出され
ると思われていた。

 しかし、美鈴は天才だったのだ。一を習って三十を習得するほどの凄まじいスピードで、
師の教えを次々に体得していったのだ。師匠が、拳法を完全に会得し た者のみに授ける
「気」の技を美鈴に教えるまで、たったの5ヶ月しかかからなかった。その「気」でさえ、
師の数百倍の早さで完全に自分のものにしてしまっ たのだ。「天下無双の達人になる」
と師に断言させた、史上最強の気法師であり、拳法家である。

 本人に自覚はないが。
 
「ねえ、やっぱり姉さんも拳法習いなよ」

 そのため、こんな風に他人に勧めたりする。
 
「あのねえ、私に美鈴みたいな動きが出来るわけないでしょう」

 呆れ顔で、鈴花は首を振る。
 
「それくらい知ってるよ。私が言ってるのは、気の使い方を覚えたら、ってことなの」

 師の教えによれば、気を操ることで身体能力を上げることはもちろん、病気を治すこと
も可能ということである。気は生命の根源ともいえるもの。故にコントロールできれば病
気を排除する事も出来るのだ。

「気を使えるようになれば、私みたいに外を走り回れるんだよ?元気になれるんだから、ね?」

「今すぐには無理よ」

「大丈夫だよぉ。私がすぐ出来たんだもん。姉さんだってすぐだってば」

 美鈴の基準は自分なので、鈴花にもすぐ出来ると思っていた。長くても3ヶ月くらい、と。
 
 何度もおねだりして、ようやく鈴花に認めさせた。ただし、教えるのは美鈴である。師
匠に話したら猛反対をくらったからだ。その意味が分からず、美鈴は密かに教えることにしたのだ。











「ひ……!」

 男が、腰を抜かして狭い路地に追い詰められていた。その視線の先にいるのは、1人の少女。
 
 紅の髪を持った少女だった。
 
「……ふふ、くっくっくふ」

 少女は妖しく笑う。目の前の人間の首をつかむ。
 
「ば、ばけ……」

 ごきり、と音がした。それほど背の高くない少女が、男の首をわしづかみにしてぶら下
げていた。男に息は、もうない。

「……あは。はははは……!」

 静かな嘲笑が、夜の路地に響いていた。











 鈴花が気を使えるようになったのはそれから半月後だった。
 
 美鈴が鈴花の部屋に遊びに行ったときに、鈴花が言ったのだ。
 
「美鈴、できたわ」

「嘘!?もう!?」

「ほんとよ。ほらほら」

 鈴花は、ボールを持つように胸の前で両手をかざす。そこに、青白い気の塊が出来た。
 
「…………」

「ね?こうでしょ?」

 美鈴は呆然とそれを見つめていた。
 
 自分でさえ、気を使うには、それまでの拳法による基礎体力が必要だったのだ。だとい
うのに姉は、鍛えてもいないどころかその病弱な体で、不可視のはずの気を可視の状態に
まで持っていったのだ。

 わずか、半月で。
 
 美鈴を遥かにしのぐ天才がここにいた。
 
「……っと」

 あまり長い時間出してはいられないのだろう。気が霧散した。
 
「どうかな?」

 無邪気な笑顔で、鈴花は美鈴の言葉を待った。
 
「……す、すごいね。私だってまだ、そこまで気は操れないよ……」

「え?そうなの?」

 ぎこちない笑顔を浮かべ、なんとか感想を言う美鈴。鈴花も美鈴同様、自分のしたこと
に自覚はなかった。この辺りは、やはり姉妹のようだ。

「あとはコントロールの問題ね。そんだけ早く出せるなら、すぐできるよ」

「そう?じゃあ、もう少しがんばるわ」

 鈴花の邪魔をしないよう、美鈴は外に出た。
 
 そして、深いため息をつく。
 
「……ふーっ。まさか姉さんが私よりずっと早く気を出せるなんて……」

 ここまであからさまに自分を超えられると、少し複雑だった。しかし、もうしばらくす
れば鈴花も自分と同じように生活できるだろう。そう思うと。

 やっぱり少し複雑だった。







 そして。
 町に「化け物」が現れる。




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