小  説

74-4 Zephyr 第五話 分かたれた絆(最終回)

「え……?」
「ああ。だから、結城君もう帰っちまったみたいなんだよ」

 数日後、「みよし」を訪れた絣は、信じられない事実を聞かされていた。
 宿の掃除をしに来ていた人に、結城の置き手紙を見せられる。そこには残りの宿泊のキ
ャンセルと、それまでの料金を払っておく旨が書かれてあった。

「帰った……?」

 小さな紙切れを持ったまま、絣はそこに立ちつくした。
 結城と別れてから、絣は悩み続けていた。
 「大っ嫌い」と言ったことを、自分から言った言葉を、ずっと後悔していた。
 本当は分かっていたのに。
 結城のせいではないことなど、言う前から分かっていたのに。
 本当に、ただの偶然なのだ。結城自身が意図してやった訳ではない。自分から事件に拘
わろうとした訳ではない。三好で事件を起こそうと思った訳ではない。成羽を連れて行か
せようとした訳ではない。
 そんなことは、初めから分かっていた。
 しかしその時は、恐らく永久に会えなくなる大切な「友達」を失ったことで、理性が切
れてしまっていた。
 何とかして、自分を被害者にしておきたかった。心の傷を最小限に抑えるために、誰か
に気持ちを押しつけたかったのだ。
 だがそのせいで、絣は本当に大切な人をも、失ってしまったのだ。
 確かに結城がいなければ、こんな事にはならなかった。
 けれど、結城に会わなければ、絣が変わろうとすることもなかったのだ。
 もう、謝ることさえできない。
 滅多に客が来ないせいで、香子さんは宿泊客の情報などとっくに焼き捨ててしまってい
た。結城がどこにいるか、誰にも分からない。
 絣は、本当にひとりぼっちになってしまったのだ。
 
「……なんて」

 バカな私。絣はそう呟くと、重い足取りで「みよし」を出た。
 自分の発言で、また自分を傷つけてしまった。しかも他の人も巻き込んで。二度と回復
できないところまで。
 今はもう、支えてくれる人はいない。そしてそんな人はもう、きっと現れない。
 抜けるような青空を見上げ、絣は溜め息をついた。雲が涙で滲む。
(もう、いいや……)
 二人のために、気の済むまで泣き続けよう。そうすれば後は、時間が癒してくれる。
 変わらなくたって、きっと生きていける。人と話す時は、その時その時で心をすり減ら
せばいいだけのこと。

「……なんだ。それならわざわざ、大きな恐怖に立ち向かう必要なんてなかったんじゃな
い」

 皮肉気味に笑って、絣は歩き出した。
 それが、心を無理矢理安定させるためだけの、くだらない発想だと分かっていても。


 新学期も始まり、絣は昔の生活に戻っていた。夜明け前に畑仕事をし、学校で適当に過
ごした後、再び畑へ行く。学校の課題などは早めに終わらせ、すぐ眠る。これからも一人
でしなければならない分多少の無理は必然的だった。
 そんな生活をひと月半ほど続けた、五月の終わり頃。香子さんも戻り、三好町も、成羽
が現れる以前の状態になっていた。ただ、そこに住む人々の心だけは変わらずにはいられ
なかったが。
 日曜日。絣は庭の草取りを終え、縁側で一息ついていた。
 なるべく体を休めたいが、しかしいつまでもぼうっとしているわけにもいかない。
 体を動かしていないと思い出してしまうから。
 それでも動けず、絣は初夏の日差しを浴びていた。
 とその時、門の木戸を開け、誰かが入ってきた音がした。それに気付いて、絣は庭をま
わる。
 そして、玄関が見える位置まで来て、絣は立ち止まった。
 
「え……?」
「あ、何だ、庭にいたのね」

 絣は自分の目を疑った。
 
「成羽……?」

 そこにいないはずの人物。近山成羽と川本結城。成羽は玄関の呼び鈴を押そうとしてい
るところだった。

「やほ、絣」

 手を挙げて、成羽は笑う。まるで、何事もなかったかのように、屈託のない笑顔を浮か
べる。

「なんで……なんでここに?」
「ほーら川本さん。言ったでしょ。絶対知らないと思ってたもんね」
「くっそー。いくらなんでも、テレビ見てると思ったんだがなぁ」

 成羽は後ろにいる結城を軽く叩いた。結城は腰に手を当てて苦笑いする。絣は訳の分か
らないやりとりをする二人のそばに近づいた。

「成羽……成羽だよね?どうしてここに?」
「……引退」
「え?」
「引退したんだ、あたし」
「引退?」

 成羽はこくりと頷く。
 
「有名つっても二年も昔だし、第一、タレント生活が嫌で失踪した落ちぶれ歌手の居場所
なんか、あそこにはないんだ。それに……」

 腕組みして、成羽は失笑する。
 
「それに何より……親友が、泣いてると思ったから」

 絣は、まだ状況が把握しきれず、呆けたままだった。しかし、だんだんとそれが理解で
きてくる。そして、感情が高ぶる。

「あ…………!」
「……ただいま、絣」
「なる……!」
「あー!!ちょっと待ちなさい!まだ早い!」
「へ?え?」

 成羽に触れようとする絣を、成羽が押しとどめる。
 
「話は全部聞いてるんだからね!まだやること残ってるでしょ!」
「え?え?」
「……もー。言うことある人がいるでしょ。ほらっ!」
「きゃあっ!」

 どん、と成羽に背中を押され、絣は前につんのめる。慌てて体勢を立て直すと、目の前
にいる人物が視界に入った。

「あ…………」

 瞬間的に、絣は怯む。謝らなければならない相手を前に、どう言えば良いか分からなく
なったのだ。

「あたしの引退を手伝ってくれたのは、川本さんなのよ。あっちこっちに呼びかけて、あ
たしが復帰できないようにしてくれたんだから」
「川本さんが……?」

 絣は結城をおずおずと見上げた。結城はまだ、気まずい笑顔をしている。
 
「絣ちゃん……」

 その結城が、口を開く。
 
「その……色々あって君を傷つけちゃったけど…………これで、許してもらえるかな……
……?」
「……あ…………」

 成羽が帰ってきただけでない。結城もまた、三好に戻ってきたのだ。たった一人、絣を
支えるために。
絣は、今度はすぐに理解した。
 答えなど、決まっている。
 
「…………はいっ!!」

 今まで、「友達」にも見せなかった、自分も知らなかった本当の笑顔で、絣は応えた。
一番好きな人の胸に飛び込んで行く。謝らなければならないのは自分の方だけど、そんな
のは今は後回しだ。
 絣は、二人の確かな温もりを抱きしめていた。


 春が終わり、夏が始まる。
 それは、新たに綴られる物語(ストーリー)。
大切な人と、大好きな人と一緒に、きっと歩んでいける道。


 曇っていた空から、光が差し込む。
 頬を撫でる、小さな風と共に。

(zephyr完)


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