小  説

77-2 ELSENA 第三話 予感(その2)

 エルセナは泣いていた。嗚咽が漏れる。ディーンは椅子に座り直すと、エルセナの髪を
優しく撫でた。

「大丈夫だよ、エルセナ」

 囁くようにして、ディーンはエルセナに優しく呼びかける。
 
「………………うん」

 エルセナはただ一言そう返した。
 
「何か嫌なことでも思い出したんだね。でも平気だよ。僕がいるから」
「…………うん……うん」

 名前を呼ばれるまでの間、ディーンはエルセナの髪を撫で続けていた。
 

「ふーん。そんなことがあったのか」
「驚いたよ。エルセナが取り乱すなんて、それまでなかったからね」

 休暇が終わり、ディーンは仕事に復帰した。その昼休み、検査の結果を聞こうと訪れた
サネージャに、ディーンはセンターの中庭で一部始終を話した。

「病院に嫌な思い出か……注射器を見てってことは、痛いとかか?」
「違う。エルセナがあんなに泣き叫ぶくらいだ。それ以上の何かだよ」

 ディーンはきっぱりと断言する。その証拠に、エルセナはもう病院には行きたがらなか
った。

「ふーむ。……ところで、エルは人間じゃないって?」

 他に何も思いつかなかったのか、サネージャは話題を変えた。
 
「ん。ああ……肉体的にね」
「そいつの方がよっぽど重要だぞ。特に脳の構造はな。マイクロチップの集合体となると、
その情報量は人間の数億倍……いや、比較なんかできないな」
「あくまで例えだよ、それは。実際にはほとんど引き出せないし」
「ま、そうだな」

 サネージャは手に持ったコーヒーを一口すすった。
 
「エルは元気なのか?頭痛の具合は?」

 ディーンは少し黙った後、首を振った。
 
「あんまり良くないな。休暇の2週間で、もう4回起きてる」
「4回も?」
「ああ。だんだん間隔が狭くなってきてるんだ。昨日も昼間に1回」
「……そうか」
「しかもその度合いがひどくなってるんだ。もう2錠じゃ効かない。昨日なんか6錠飲ま
せて、ようやく落ちついたんだ」

 40錠入りを3袋もらっているから良いものの、その消費量は回を追うごとに増えてい
た。頭痛が襲う度に、エルセナの苦しみ方が増すのだ。

「でも原因はつかめないんだよな?」
「うん。脳の一部に負荷がかかるってだけ……」
「負荷か……人間でない分、何か問題があるのかもな」

 昼休みが終わる時間なので、サネージャは立ち上がった。
 
「そういえばサネージャ。エルセナの情報は何かあった?」

 ディーンも立ち上がりながら、そう尋ねた。それに、サネージャは苛立った声で答える。
 
「何にもない。ウチに寄せられてくるのは、ここ最近の『滞電(たいでん)』の件だけだ」

 ああ、とディーンは納得した。
 
 この10日間ほどで、『エルセナ』は既に3回停電を起こしかけている。幸いにも暗く
なるだけで、機能は全て働いているのだが、その都度何かしらの障害が起きる。昨日も一
度起きたため、午前中二人はその処理に追われていたのだ。

「だけど発電所はしっかり稼働してるんだろ?」
「だから余計たち悪いんだ。原因不明だからな」

 サネージャによると、『滞電』は非常電源にまで作用していたらしい。そして、外部か
らの干渉は全くなかった。

「1回ならまだしも、3回ともなるとな。ブラックアウト以来、厄介事が多発してる」

 溜め息をついて、サネージャは中に戻った。
 ディーンも同感だった。これからしばらくはまた、面倒なことになりそうである。
 

「……何だ?これ」

 1週間後。仕事を終え、帰宅することにしたディーンは、エレベーター内の異変に気付
いた。
 それぞれの階を示すボタンの一番下に、わずかな溝がある。普段はただの線にしか見え
ないそれが、この時だけ何故か面になっていた。小指くらいの幅に広がっている。奥には、
ボタンのある盤と同じ銀色の盤があった。
 しかもよく見ると、それは更に広い面積を持っているらしい。指を曲げると、中で曲げ
ることができた。
 どうも、ボタンのある盤は上下にスライドできるようになっているようだ。ディーンは
溝に指をかけ、盤を上にずらした。結構重い。

「………………これは」

 そこには、ボタンが一つだけあった。何の表示もないボタン。
 明らかに隠してあった。
 どうするか、ディーンは迷った。こんなところに、誰も気付かないようなボタンがある
のは不自然だ。何のためのボタンなのだろう。
 だが止まらなかった。好奇心が警戒心を上回っていた。
 ディーンは、ゆっくりとそのボタンを押した。
 途端に、ディーンが押した1階の表示が消える。そしてエレベーターは、通常の倍くら
いのスピードで下降し始めた。ふっと浮くような感覚がそれを物語っていた。
 エレベーターはどんどんと降りる。間違いなく1階も、地下5階をも通り過ぎていた。
 途中、ディーンは猛烈な耳鳴りを感じた。あまりに深く降りるために、外気圧が大きく
なって鼓膜が圧迫されているのだ。
 唾を飲み込んで圧力に対抗していると、エレベーターが止まった。体が一瞬重くなった
のを感じた後、扉が開いた。

「うわ…………!」

 着いた先は、小さな部屋だった。ディーンの家の寝室くらいの広さしかない。壁は古び
て汚く、ひび割れていた。床には何本もの太いコードが散らばっている。電気もなく、ま
た何年も使われていないのか、部屋全体が埃っぽかった。
 その部屋の隅に、小さな机と、そこに置かれた小さなコンピューターが置かれていた。
コンピューターは電源が入ったままで、スクリーンセーバーが起動していた。そこから放
たれる光だけが、その小部屋を照らしていた。

「随分古い型だな……」

 毎年最新機種が作られている『エルセナ』だが、ディーンの前にあるのは、どう見ても
100年程昔のものだ。今時こんな物が存在しているのは、珍しいどころの話ではなかっ
た。
 ディーンはキーの一つを押し、画面を元に戻した。コンピューターもキーボードも大量
に埃が積もっていて気持ち悪い。下手に吸い込まないように、ディーンはハンカチで鼻と
口を押さえた。
 画面にはパスワード入力が表示された。
 
「パスワード?」

 こんな100年も昔の機種のパスワードなど知っている訳がない。ディーンはしばらく
思案していたが、諦めてコンピューターから離れた。こんな所にこんなコンピューターだ。
下手にいじってセキュリティが作動でもしたらまずい。ディーンはコンピューターは放っ
ておいて、他に何かないか見回してみた。
 すると、壁の一角に扉が見えた。暗いので初めは気付かなかったらしい。
 近付いてよく見てみると、これもまた古い型の扉だった。自動で開くのだが、カードロ
ックがついているので、開かない。

「……ISB=163、か」

 埃を払うと、製作番号が見えた。3桁のアルファベットと数字とは、やはり100年く
らい前のものだろう。
 恐らく、この部屋は100年ほど前に作られたのだろう。埃の溜まり具合からして、そ
の間全くといっていいほど使われていないらしい。それもその筈だ。この部屋の存在を知
っている人間が何人いるか、一人いるのかすらも分からない。
 何にしても、この他には何もないので、ディーンは一度地上に出ることにした。パスワ
ードやもう一つの部屋も気になるが、何もできないのでは仕方ない。
 帰宅時間帯であるにも拘わらずまだそこにとどまっているエレベーターに乗ると、ディ
ーンは上の盤を引き上げられる程度にまで下ろしてから、1階のボタンを押した。
 上へと昇って行くエレベーターの中で、ディーンは考えた。
 隠された部屋。たった一つのコンピューター。何があるのか分からない鍵付きの部屋。
 一体何の目的で作られたのだろうか。ほとんど使われていないところを見ると、さほど
重要ではないのかもしれない。しかし、明らかに隠し部屋である以上、その可能性は低い。
 結局考えている内に、エレベーターは1階に着いてしまった。仕方なくディーンは外に
出る。

「…………あ!」

 センターを出たところで、急にディーンは閃いた。ポケットから携帯電話を取り出し、
メールを打つ。
 『アバーヴ』のサネージャに言えば、何か分かるかもしれない。ディーンはそう考えた。
 それでなくとも、サネージャは以前、ディーンに偽造カードを作ってくれたことがある。
造りは完璧で、何度かお世話になったものだ。100年昔の物でも、サネージャならロッ
クを解除できるかもしれなかった。
 焦っていたせいで所々打ち間違えたが、ディーンはサネージャに、地下の小部屋とコン
ピューターのパスワードのこと、そしてロックの偽造カードキーを作って欲しい旨を伝え
ておいた。
 全く返事が返ってこないのが気になったが、2度も送るとサネージャは怒るので、ディ
ーンは待つことにした。

 自分が本当に巨大な秘密に迫っていることも知らずに。
 
(第3話終わり。続く)


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