小  説

80-3 雪夏塚〜セツゲツカ 姫崎綾華編 第一話 新しい始まり(その3)

「うん。ほら。お義父さんとお母さん、一緒に働いてるでしょ?それが今度、海外に行く
ことになっちゃたんだよ」
「おまえも行けばいいだろ」

 義母が働いていた事は知らなかったが、そんなことで論議する気もなく、槙人はさくっ
と返した。

「私は学校があるんだよ。留学なんて柄じゃないし・・・。それで・・・おにいちゃんと
・・・」

 俯いたまま、綾華はむにゃむにゃと語尾を誤魔化した。
 槙人は溜め息をついた。

「なるほどな。けど、一人暮らしもそう悪いもんじゃないぞ」
「・・・お兄ちゃんのはボロアパートでしょ?家はこんなに広いんだから寂しさの格が違
うよ」

 不満を表した目で、むー、と綾華は再度槙人を見上げる。

「・・・なかなか言うじゃねーか。だったら尚更、こんな生意気な小娘がいる家に住む気
はねーよ」

 わざと憎たらしく笑って、槙人は返した。

「うう。ヒドい・・・。でもね、お兄ちゃん」

 一瞬だけ綾華は身を引く。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべてきた。

「何だよ」
「・・・お兄ちゃんの帰る家なんか、もうないんだよ」
「はい?」

 上目遣いの綾華の言葉に、槙人は頭から聞き返した。

「お兄ちゃんは帰るなんて言ったけど、帰る家はここ以外にはないの」
「・・・どういう意味だ?」

 なんだか不穏な事になっているような気がして、槙人は肩をひそめた。

「つまりね、お兄ちゃんが住んでいるアパートは、さっき私達が解約しちゃったの」

 軽く、あくまでも軽く、無邪気ともいえる笑顔で、綾華はさらっと重大発言をした。道
端の雑草程度のさりげなさだったが、聞き逃す筈も聞き間違う筈もなく、槙人はその場で
硬直した。

「・・・じゃあ。否応なしにここに住めと?」

 生気のない声で槙人は問う。

「うん」

 対して綾華は、笑顔を崩さずに答える。

「・・・俺の部屋にある家具なんかは?」
「引っ越し業者にも連絡済みだから二、三日でこっちに届くよ」
「・・・待て。学校は?こっちから通えってのか?」
「ううん、私と同じ学校に転校してもらうよ」

 手続きはもう済んでいるから、と綾華は楽しそうに微笑む。
 その笑みは純粋なものだった。
 純粋に、悪魔の笑顔だった。

「ち・・・・」

 石像のように突っ立っていた槙人は、ようやくその呪縛から立ち直った。

「ちょっと待てぇー!!」

 盛大にドアを開け放ち、なきとは新しく住む家に駆け込んで行った。



 順を追って話を整理すると。
 まず、両親が二人とも海外に転勤になった。
 広い家にも拘わらず家政婦を雇ったりしている訳ではないので、日本に残る綾華は、必
然的に一人になってしまう。
 そこで、槙人を呼ぶ事にしたのだ。
 第一に、槙人の転校手続きを済ませる。これは彩花の意図により極秘裏に進められた。
 だが槙人を呼ぶにしても、来るかどうかはともかく、一緒に住もうとはしないのは目に
見えていた。
 そこで第二に、綾華が危篤で倒れた事にする。
 確かに綾華は普通の人よりも体が弱い。しかし、倒れる程病弱な訳ではないのだ。だが
槙人がそんなことを知っている筈もないので、理由としてはそれで充分だった。
 そして第三に、槙人が家を出る頃合いを見計らって、アパートの大家に連絡し、部屋を解
約する。同時に引っ越し業者に連絡し、荷物を届けさせるようにする。
 そうしてすべての退路を断った上で、槙人に真相を話す。
 それが綾華の考えた計略だった。
 つまり、騙された。
 それも二重に。
 少し考えれば分かる事だった。何故病院でなく家に呼んだのか。何故病名を言おうとし
なかったのか。
 だというのに、槙人はそれに気づかなかった。
 結果、綾華の思惑に見事にはまってしまったのだ。
 寸分の狂いもなく。
 己の浅薄さを思い切り見せつけられた気がした。
 逃げ道はどこにもない。
 叔父たちとは仲違いしてしまっていたため、今更援助は期待できなかった。
 詐欺に遭った人って、こんな気持ちだろうか。
 そんなことが頭に浮かんだ。
 が、余計惨めになるので考えるのはやめた。

「ね、お兄ちゃん」
「・・・何だよ」

 リビングのソファーでぐったりしている槙人に、綾華が呼びかける。

「これから、よろしくね」

 そして、花が咲くような笑顔を向ける。
 その花が食虫植物のような気がして、槙人はもうリアクションする気にもなれなかった。

「・・・好きにしてくれ」

 そして槙人は、よりいっそう深くソファーに沈み込むのだった。

 
続くぜ!!


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